見知らぬ他人の善意

3/4
前へ
/4ページ
次へ
 今ではネットスラングとしてすっかりお馴染みの「釣り」。嘘の情報で人を集め、自分の見せたい情報を見せたり、広告へ誘導したり、炎上を狙ったりというもので、基本的には悪い意味で使われる。  この場合の釣りは、「集団自殺募集」というのが嘘の情報だった。つまり、集団自殺を望む者が閲覧するように誘導しておきながら、実際には集団自殺のためのサイトではなく、「自殺防止」のためのサイトだったのだ。  そこに書かれていたのは、ありふれた陳腐な言葉だった。辛い中でよく頑張った。あなたは死んではいけない。今いるそこは全てではない。未来は必ず拓ける。  そんな言葉を目にしたら、今の人たちは鼻で笑うだろうか。しかし、思い出してほしい。この頃、そんな言葉は()()()()()()()()()()()()()()()()()()。  精神科が存在しないわけじゃなしに、よくよく探せば、どこかしらに相談窓口へ繋がる道はあったのかもしれない。しかし、検索したら相談窓口より先に自殺募集にアクセスできた頃だ。その中で、そのサイトは、少なくとも私にとっては異質だった。  そのサイトには、連絡用のメールアドレスが載っていた。私は子どもなりの拙い言葉で、どこの誰とも知れない相手に、自分の辛さを吐き出した。  返事はきちんと返ってきた。思い留まってくれて良かったと。あなたが生きていてくれて良かったと。私の未来を、その人だけが願ってくれた。  教師も、養護教諭も、両親も、友人も、誰もかけてくれなかった言葉。本当は誰に許される必要もないはずなのに、それでも、私がこれからも生きていくことを、顔も名前も知らないネット上のこの人だけが肯定してくれた。  今のネットリテラシーから考えたら、おそらくギリギリの対応だ。というか、あまり良くないだろう。  まだ良識の曖昧な子ども相手に、優しく寄り添う言葉をかけて引き込むのは犯罪の常套手段だ。この人はたまたまロリコンではなかっただけで、例えば私が女子大生だったら、会って相談に乗るという話になったかもしれない。お金を持っていそうな大人だったら、スピリチュアルな商材を買わされたかもしれない。単純に、他人の不幸を見たいタイプの野次馬だったのかもしれない。  そもそも善意だったとしても、専門知識のない素人が迂闊に深入りした場合、間違った方に背中を押してしまう可能性がないとも言い切れない。  たまたまこの時は幸運にも、話は穏便に済んだ。それだけだ。  悪いようにはいくらでも考えられる。ただ私は、ひとまずこの出来事を良い思い出としてカテゴライズしている。  まだセーフティネットが機能していなかった頃。自殺が流行っていく世の中で、それを憂いて行動に移した人がいた。一銭にもならないのに、わざわざサイトを立ち上げて、どこの誰とも知れない相手の鬱メールに付き合っていた。  他人のために、無償で労力を割くという行為がどれほど大変か。それは大人になるほどわかるだろう。  大半の人間は敵だ。積極的に害してくる悪意ある人間は少ないかもしれないが、自分に害が及ぶとなれば、途端に他人がどうでも良くなるのが普通だ。災害時の振る舞いを見れば明らかだろう。人は利害なしに他人を助けない。  そして数は少なくとも、悪意ある人間は弱者を狙い撃ちしてくる。弱者はそれに抗えない。助けはない。世は弱肉強食。弱者が笑顔で日々を謳歌できる世界は、理想郷(ユートピア)にしか存在しない。  一日三食の内、二食に毒が仕込まれている日々が続いたとして。どうして一日一食しかない「毒の無い方」を最初から期待して口に含めるだろう。まず毒を警戒するのが自然だ。他人と接するというのはそういうことだ。  しかし、一食は確かに無毒なのである。それに当たったら幸運。人間の善性とは、そういうものだと思っている。それは稀に自分にも見えるものかもしれないし、自分ではない誰かにしか見せないのかもしれないし、本人のみに向けられるものかもしれない。  ただ、いつ如何なる場合においても全方位に毒しか持たない人間というのも、極めて稀なのである。  基本的には毒を盛られると思っている。だから人間関係は嫌いだ。人とはできるだけ関わりたくない。  しかし、人間の善性は信じている。それが自分には決して向けられないとしても、持ち合わせているとは思っている。だから人間という生きものそれ自体を嫌う気にはなれない。  今私が生きているのは。見知らぬ他人の善意による結果だからである。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加