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3.デート
千尋との『デート』が始まってはや一ヶ月が経とうとしている。
千尋は約束を取り付けては、忠犬よろしく毎週俺の家の玄関先にやって来た。
雨の日も風の日も。
普通ならこの天気だしやめておこうと言いたくなる様な天気の日も、千尋はやめなかった。警報でもでない限り、きっと予定は変更しないだろう。
そこまでしてどうして? と思うが、理由を尋ねてもニコニコ笑うだけでかわされてしまう。
その日の土曜も千尋とでかけた。
千尋は人ごみでギュウギュウになる場所は避けて、いつも自然の多い場所、または人が視界に入らない、人影まばらな場所を狙う。
それは、霧のロンドンだったり、モンゴルの草原だったり、アマゾン川流域だったり。
千尋がそう言うと、全て世界が塗り替えられる。ちなみに今日は南イタリアの農村──郊外の山の麓の農村地域──だった。
途中、畦道に腰掛け、遠く眼下に広がる田んぼとその先に鈍色に輝く海を見下ろす。
街から一時間程電車で来た場所だ。
「千尋は、凄いな」
「なんで?」
「なんでって、ごく普通の景色がさ。千尋が見ると、全然違うものになるってこと。行ったことないのに、そこにいるんだ──って、嘘みたいだけどそう思えてくる…」
「そっか、成功成功! でも、それは拓人も凄いって事だよ。想像力がユタカ! …な?」
そう言って、首を傾けて覗き込んでくる。思わずドキリとしてしまった。千尋は時々仕草がかわいい。俺は妙にどぎまぎしつつ。
「そうかな? きっと千尋が上手なんだよ。導き方」
千尋はフッと笑んだあと、
「拓人、楽しい?」
満面の笑顔で尋ねて来る。余りの笑みに俺は思わず吹き出しそうになりながら。
「うん。楽しい」
千尋といると。
千尋と見る世界は、とても楽しく心地よく。ずっと一緒に見ていたいと思えた。
その日は帰りが少し遅くなった。
南イタリアでのんびりし過ぎたせいだ。なんせ夕日が沈むまで見ていたのだから、遅くなるのも当たり前だ。
家に一番近い駅で降りると、千尋は歩きながら振り返る。
「少し風紀が悪いけど、近道、してく?」
「うん。出来れば…」
時刻は夜九時を回る。一応、家に連絡は入れてあるけれど、母奏子や兄律に心配をかけさせるのは良くない。少しでも早く帰りたかった俺は千尋の提案に頷いた。
千尋も頷くと、それまで繋いでいた手を更にしっかと握って。
「これ、コイビトつなぎ。こっちの方が離れ憎いから」
そう言うと、互いの指が交互になるように握ってきた。確かにこれだとただ繋いでいるよりピッタリと繋がる。
これが──? でも、恋人って。
いい加減、俺相手にそれはないと思うのだけど、千尋は止めない。からかうのが好きなのだろうか。
きっと千尋にも、そう言う人がいるのだろう。恋うひと。恋しく思う人。
そう思うと、ちょっと──いや。本当は認めたくないけれど、だいぶ胸を締め付けた。
ずっと、千尋とこんな風にしていたいけど、きっといつか終わってしまうのだろう。
大好きな彼女と今みたいに手を繋いで歩く千尋を想像した。
正直、寂しい。
けれど、これは現実だ。
「拓人?」
歩みが遅くなった俺に気がついて、千尋が訝し気な顔をして振り返る。女のコの様に長めの襟足がふわふわ揺れた。
「何でもない…」
俺にはそう答えることしか出来なかった。
まさか、会ったこともない恋人の存在に、嫉妬したなど言えるはずもなく。
これ、…嫉妬か。嫉妬、なんだよな?
千尋といることで改めて気付かされる感情が沢山あった。
千尋をかなり好きになっている自分。いままでこんな風に何かを好きになったことがあっただろうかと思い返す。
そういえば、好きになったものはあったな。
昔、昆虫を観察するのが好きで、家にまで持ち込んで見ていたことがあった。後で逃がしたのだけれど、母にはよく不興を買っていた気がする。
そのあとは石に嵌った。遊びに行った祖母の家が海岸沿いにあって、近くの浜で石を拾ったのだ。
それは翡翠が取れる浜で。拾った石はその翡翠だったのだ。とても小さく、良く見つけたと周囲の大人にほめられ、得意げだったのを覚えている。
こちらも家に持ち込むと母にいい顔をされなかったため、必要最低限、一番のお気に入りだけ、自分の勉強机に飾っていた。
その後、色々な石や地層に興味を持ち、行ける範囲をあちこち歩き回った気がする。
一転、中学に入ってからは陸上にのめり込み。長距離を淡々と走るのが性にあっていたらしく。
でも、どれも今の好きとは違う気がする。
俺はなおも気遣いながら振り返る千尋に、大丈夫だよと笑顔を見せ、その背中を見つめた。
拓人より広い背中は、一つ上なだけなのに、大人を感じさせる。
「……」
唐突に切なくなって、その背中に抱きつきたい衝動にかられ、少しうろたえた。
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