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「盛り上がれ上腕二頭筋! 唸れ胸筋!」
天気予報を見ようとテレビを点けた途端に、CMが目に入った。どうも新作スマホゲームの宣伝だったらしい。
私の目が死んでいる。
最近、俳優がドラマの中で少し脱いだら盛り上がった筋肉にときめく女性が多く、俳優もプライベートのインタビューではもっぱら筋トレの話ばかりしている。
お笑いでも筋肉が流行っている。最近人気の出るアニメキャラクターももっぱら筋肉だ。
私の目が死んでいる。
元々私は生まれたときからもりもりした筋肉が苦手だった。丸太みたいで怖い。摘まみ上げられそうでおそろしい。小柄でどれだけ牛乳を飲んでも小さいままだった私からしてみると、身長平均代でも筋肉の分だけ体が倍に見えて、余計におそろしく見えていた。
そのせいなのか、私が心惹かれる人は、皆少女漫画のような体型をしていた。華奢で折れそうな腕、浮き上がったあばら、鎖骨。
その手の人は大概「体に悪いからもっと食べろ」と食べ物攻めされてしまうため、その体型を維持している人なんて知らない。実際、女性であばらなんて浮いていようものなら「体に悪いからもっと食べろ」と食べ物攻めされてしまうだろうから、人のことなんて言えない。
ただ私は筋肉が怖かった。小さい私からしてみると、私と同じ身長でも筋肉の分だけ倍に見える人を怖いと思っていても、そんなことを今時口にしようものなら「ルッキズムの権化」と揶揄されてしまうだろうから、余計に怖くて言えなかった。
****
そんな怖がりな私が独り暮らしをしなければいけなかったのは、単純に実家から会社が遠かったので、できる限り会社に近い家を借りなければいけなかったからである。
オートロックでできる限り治安のいい場所。家捜しは難航を極めたものの、なんとか捜し出してそこに引っ越しをした。
隣がずっといないのもあり、気楽に生活していた。そんな中、チャイムが鳴った。
「はい」
玄関越しに声をかけると、引っ越し業者であった。
「すみません、隣で引っ越し作業を行いますので、しばらくうるさくなります。玄関に粗品をかけておきますから」
「あー、はい。わかりました」
引っ越し業者が隣に向かっていったのを見届けてから、私はこっそりと玄関にかけられた粗品を取った。引っ越し業者のタオルだった。
お隣さんはどんな人だろう。男の人だとしても、あんまり大きな人ではないといいなあ。
じろじろ見ていても駄目だろうと、そのまま家に戻ろうとしたら。
なにかが顔にベチャッと飛んできた。臭い。思わず顔をしかめた。誰かの汗を思いっきり吸ったタオルだった。
「ああ、すみません! 自分のタオル!」
「あ、はい」
出てきた人は、甘いマスクの爽やかな人だった。こんなに光り輝く歯の人、ドラッグストアのCM以外で初めて見た。
身長は高い。世の中私より高い人しかいないけれど、それを差し引いても身長は高く、デニムから伸びた脚は1mを越えてるんじゃなかろうか。
しかし。そのシャツを着ていても誤魔化しきれないほどの肩の張り具合、盛り上がった胸筋、まくり上げた腕の太さ。
……私の苦手全部乗せの人じゃないか。
私は顔に貼り付いたタオルを返すと、丁寧に「ありがとうございますありがとうございます」とお礼を言われた。
「それでは……」
「今日から越してきた前中です! どうぞよろしくお願いします!」
「はい……後藤です……」
私は会釈をしてから、のろのろと部屋に戻っていった。
汗臭い人のことは忘れたい。しかし、お隣に越してきた以上は、当たり障りのない付き合いをしないと駄目だし。
****
既にお隣の引っ越し作業は終わっただろうか。ひとりでうだうだしている間に、冷蔵庫の中身がもうないことに気付いた。
なにか買いに行かないと。スマホを見たら、今日期限が切れるドラッグストアのクーポンが見つかったから、それを持って買い出しに行くことにした。
下まで降りて行って、「あっ、後藤さん!」と声をかけられた。大声で叫ばないでほしい。
「はい」
「すみません! ちょっと買い物に行きたいんですけど、この辺りってドラッグストアはどこにありますかね?」
今から行こうとしているのに。常連だと言ってしまうと、一緒に行くことになるんだろうか。私は怖がりながらも、「そこの路地を真っ直ぐ行くとありますよ……」と教えた。
そのまま目的地が同じな私たちは、一緒に行くことになった。前中さんは笑顔のままだ。
「ええっと、すみません。後藤さん」
「はい?」
「自分、しょっちゅう『声が大きい』『体がごつくて怖い』と言われるんで、どうにか怖くないように振る舞おうとしてるんですけど、大丈夫ですかね?」
そうまじまじとこちらを見られて言われてしまった。
……考えてみりゃわかることだった。
私は小さいし、前中さんは大きい。後ろ姿だけだと、親子にだって見えかねない。なのにどうして私と前中さんは横並びで歩いているのか。前中さんが歩幅を狭めなかったら、足の長さが違うんだから横並びになんかならない。
この人、私が怖がっているのに気付いて、気を遣ってくれたのか。
そう考えると、ものすごく申し訳なさが募る。
「……前中さんは、怖くないですよ。ただ、私が小さいせいか、なにもかもが皆大き過ぎて、すぐ怖がるだけなんです」
「そうなんですか!」
それに前中さんは、にこやかに返事をした。
「よかったです! 怖がられてなくって」
この人はいい人だけれど、もしかすると苦手かもしれないなあ。にこにこ笑う前中さんを見ていると、それを言うのも野暮だと思って黙っておいた。
<了>
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