第1話 聖女、堕つ

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第1話 聖女、堕つ

 僕には幼いころに親同士が決めた婚約者がいた。  彼女の名はラヴィーリア。祝い名はユーメという。祝い名は古い風習で、かつては幼名とも呼ばれたらしい。家ごとに伝統的に付ける祝い名があって、今では二つの名を一緒に付けることが多い。彼女の祝い名は不思議な響きだった。  僕はロスタル家の跡継ぎ。ロスタル家は南部のゴーエという、所謂、伯爵領と呼ばれる領地を任されている。彼女はソノフ家の三女。古い王族の流れを組む家系で王都近郊の、大きくは無いが豊かな土地、ルテル公爵領を任されている。僕たちの婚約はふたつの家の繋がりを強くするためのものに過ぎなかった。  小さいころ、初めて彼女を見たときには表情のない、ただただ美しいだけの人形のように見えた。彼女の白い肌や紫の瞳、銀に見える淡い金髪は作り物の陶器や銀細工のようだった。婚約者と紹介されてもその頃の僕にはピンとくるものはなく、そうなんだ以上の感想は無かった。ただ、ロスタル家の跡継ぎとして、見栄を張った挨拶を交わした際、何がおかしかったのか彼女は声を上げて笑った。  もしかすると馬鹿にされているのかもしれない。けれど僕は彼女の屈託のない笑顔に惹き付けられてしまった。  あとになってわかるが、彼女のこの笑顔は本当に愉しそうにしているときしか見せないことがわかった。これがのちに王都で聖女と囁かれることになる少女との出会いだった。  ◇◇◇◇◇  僕が正式にラヴィーリアと付き合いを始めたのは十二の頃、王都で勉学に勤しむようになってからだ。南部では得られない知識や魔術を習得するため、長期にわたって王都に滞在することが増えた頃からだ。  城には学び舎と呼ばれる一角があり、若い貴族たちが従者を伴って集まってくる。そこでは彼女は聖女と呼ばれていた。聖堂と呼ばれる主神の住まいとソノフ家は繋がりが強く、幼いころから厳格な教えの元に育ち、聖堂での祈りを欠かさず、弱い者には施しをし、常に慈しみと笑顔を絶やさないからだという。  また、僕らは物心をついたころには神様から祝福を得る。その中にはまさに聖女となる祝福もあるため、彼女はその聖女の祝福を得たのではないかと囁かれていた。何より、ソノフ家が彼女の祝福を口外していなかったからだ。  再会したラヴィーリアは美しかった。思春期が訪れ、急に大人になった僕には以前と違ってそう思えた。彼女が絶やさぬ笑顔だけは作り物に見えたが、やがてそれが対外的に彼女があつらえた面のようなものだということがわかる。親しい僕には頬を赤らめ、また冗談を言うとあの頃のように声を上げて笑ってくれた。  ◇◇◇◇◇  一年、僕と関わることでラヴィーリアは徐々にその硬い面を崩していった。表情は柔らかくなり、学び舎でのそれまでの聖女然とした扱いから、学友としての扱いへと変わっていったように思う。  ただ、僕を心配させたのは彼女の男性との距離感。男性が近づくと、彼女は容易に子供同士のような距離まで近づくことを許してしまう。さすがの僕も婚約者として彼女に何度か苦言を呈していた。ラヴィーリアは謝るも、二三日するとまた、同様の光景を目にすることとなり、心が休まる暇が無かった。  そしてついに十五の成人を控えた前の年の夏、決定的な事件が起こる。  ◇◇◇◇◇  僕はその日、侍従と共にある夜会へ訪れていた。ただ、招待には一度断りを入れた上、失礼を承知で遅くに訪れていた。当然、咎められるものと覚悟はしていたが、意外なことに僕たちは二階の会場へと通される。会場内を見渡した限りではホストの姿は見えない。僕と侍従は示し合わせた通り、三階のバルコニーへと向かう。  僕たちはある程度の抵抗を予想していだが、誰も邪魔をする者はいなかった。――時期を見誤ったか――そう思ったが何もないと言うことはあるまい。  バルコニーに用意された席にはホストである第二王子とラヴィーリアが居た。まさに口づけを交わす瞬間に僕たちはやってきたのだ。いや、声をかけた後の二人の表情を見て、これは見せつけるために時をみたのだと感じた。 「カルナ様! 何故ここに!?」  驚きを隠せないラヴィーリア。  対して第二王子は余裕の表情で僕を見下している。 「僕はもともと招待客だ。居て悪いか、ラヴィ」 「あのっ、こ、これは、違うのです!」――慌てて僕の元に駆け寄るラヴィーリア。 「何が違うのだ。僕の婚約者がこんなところで何をしている!」  ラヴィーリアの手を振り払うと彼女はよろめき床に座り込む。 「も、申し訳ございません。つい、雰囲気に酔ってしまい……」 「この場だけの不義だと言うのか」 「は、はい……」 「では先日、第二王子と閨を共にしたのはラヴィ、其方では無いと言うのだな!」  青ざめるラヴィーリア。そんな顔をして欲しくなかった。 「――君との婚約は破棄させてもらう。ルテル公にも伝えておいてくれ!」 「カルナ君!」  第二王子が呼びかけてくる。僕は奴を睨みつけた。 「よい顔だよ。実によい顔をしている。男はそうでないとな」  第二王子はロスタル家、ソノフ家双方の政敵の派閥に属する。選りに選って何故こいつと! ラヴィーリアの浅はかさに吐き気がした。 「カルナ様! 捨てないで! お願い!」  縋りついてくるラヴィーリア。何もかもが気持ち悪く見えた。侍従に命じて彼女を引き剥がすと、足早にバルコニーを離れた。  僕はただただ悲しかった。階段を踏み外しそうになったところで侍従に支えられる。  信じたくなかった。あのラヴィーリアが嘘をつくなんて。  吐き気と眩暈で何度も倒れそうになった。  この時の僕には思いもよらなかった。  この暗闇から救い出してくれる少女が現れるなん――――  ――――ちょーーー、ちょっ、ストップ! 待って! 主人公は私なの! 私!  私こそがこの惨めな少女、ラヴィーリア・ユーメ・デル・ソノフにしてこのお話の主人公! あっ、ちょ、そこの人逃げないで! まだお話、ここからだから!  かつて私は王都で聖女と囁かれる存在でした――  語り始めちゃったとか言わないで! 感想欄に凸らないで! お願い、聞いて?  かつて私は王都で聖女と囁かれる存在でしたが、その実、公爵家三女としての振る舞いを期待されていただけで私自身は特に大きな慈悲も思いやりも無い普通の女の子でした。ただ、相手にどう反応していいかわからず黙っていただけ。他にできることもないため聖堂で祈り、欲しい物もなく満たされていたため自由にできるお金で施しをしていただけなのです。  本当に慈悲に溢れた少女だったなら、神様は私に聖女の祝福をくださったことでしょう。ですが私に与えられた祝福はとても聖女とは程遠いものでした。ですから父は私の祝福を公にしていません。  私はただの女の子ですがカルナ様は違います。私を聖女と呼ばれたくびきから解き放ってくださいました。心から笑いあえるのは彼だけだと今でも信じております。  ですが私は過ちを犯しました。  ◇◇◇◇◇  私は従者を連れて屋敷に帰りました。  あの後、第二王子は私を嘲笑うだけで慰めの一言もありませんでした。  このような人物に貞操を許したのかと思うとなおさら自分が惨めでした。  部屋に戻り、従者であり側使えのレアリスが休む準備を整えてくれると、何故か彼女はこんな夜更けなのに自身の身支度を始めます。 「レアリス? どうしたの?」 「お嬢様、わたくし、お暇を頂こうかと存じます」 「えっ? 急に、どうして……」 「急に……ではございませんよ、お嬢様。わたくし、何度も申し上げたはずです」 「えっ」 「カルナ様のことを考え、態度を改めるようにと。ですのにあのような……」 「それは……その……」 「いずれにせよ、これから面倒なことになります。その前にわたくし、お暇させていただきますので」 「待って、一緒に居て貰えないの? 長年連れ添ってくれたじゃない」 「お気持ちはわかりますし、私も思うところあります」 「だったら――」 「ですが我慢の限界です。わたくしにはついていけません」  そういうとレアリスは荷物をまとめて夜中に出て行ってしまった。  そして私は知ることになる。彼女の言う面倒なことがこれから起こることを。  愚かな私は再び過ちを繰り返すことを。
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