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石矢さんはその気配に僕の身体から退くと、グッと腕を引かれて何事もなかったかのように座らされた。
僕も慌ててくつろげられたスキニーパンツと下着を上げて涙を拭い、鷲掴まれて乱れた髪を手櫛で整えると、リビングに顔を覗かせた将継さんに「ま、将継さん、お帰りなさい……」と必死に平静を装った。
「ただいま。深月も石矢も悪かったな。私がいなかった間、なんもねぇーよな?」
石矢さんはまた見えない尾を振る犬のように「お帰りなさい! 将継さん! 深月さんと楽しく話せたっす。深月さんホント良い人で、俺も大好きになっちゃいました」と笑って。
将継さんはどこか誇らかに「だろ? 私の拾いっ子は、ちぃーと人見知りで臆病だが本当にいい子なんだよ。石矢とも仲良くなれたんなら何よりだ。二人共いい友達になれんじゃね?」と微笑んだ。
けれど、次の瞬間僕の瞳を覗き込んだ将継さんが、おや?と不思議そうな顔を見せるので、バレてしまわないかとそわそわしてしまう。
「なんか深月、目ぇ赤くね?」
「……あ、ちょっと……石矢さんに昔の話とか聞いてもらってたら、涙、出ちゃって……。僕、男のくせに、涙腺緩くて……」
「深月さんとたくさん話せて超楽しかったっす! 早くご飯炊けないかなぁ」
僕は痛む腹と背中や握りしめられた下肢を必死で庇いながら将継さんに笑顔を見せた――見せられた、と思う。
将継さんに暴行を受けていたと泣いて縋ることも出来た。
出来たけれど僕はそうしなかった。
前科一犯だという石矢さんが、こんなことをしたと将継さんが知ったら彼は仕事を失ってしまうだろう。
罪を償って更生しようとしている(こんなに将継さんを慕いながら……)未来ある青年の芽を摘むことだけはしたくなかった。
僕が我慢すればいい。
ずっとそうやって我慢して生きてきた。
僕さえ耐えていればみんな平和でいられるんだから。
なのに――。
キッチンへ向かう将継さんと石矢さんの背中を霞む視界で見つめたら不覚にも瞳から一筋、頬に温かな落涙を感じて。
でもそれは暴行された痛みの涙じゃなくて。
(将継さん、嘘吐いてごめんなさい……)
石矢さんに暴行されたことよりも、将継さんに嘘を吐いてしまったことの方がずっとずっと苦しくて――。
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