672人が本棚に入れています
本棚に追加
/369ページ
母さんがいま言った言葉は何だろうと僕は呆然と立ち尽くしてしまうと将継さんが代弁するように「……は?」と呆けた声を出した。
「聴こえませんでした? 深月をいくらで買って頂けますか?と言ったんですけど」
「深月を……深月くんを売るという意味ですか?」
「ええ。深月は私が女手一つで十五まで育てた大切な子です。まさかタダで差し上げるなんて思っていませんわよね?」
襖の隙間から、将継さんが握り拳を作っているのがわかったけれど、僕は母さんの言っていることが理解出来なくて頭の中が白く塗りつぶされていく。
「十五まで……って、それは今はもう息子さんじゃないような言い方をなさるんですね」
「息子ですよ? でも……あの子は今の旦那と再婚してからろくに中学にも行かなくなりました。旦那の虐待の事実はありましたが、旦那は私を惨めなシングルマザーから救ってくれた大切な人です。だから、深月を差し出すくらい、なんてことはありませんでしたの。それに――」
「それに?」
将継さんの聴いたこともない冷淡な声が聴こえてくるけれど、それ以上に僕は足元から全身が寒気に包まれて、目の前で繰り広げられている会話を信じたくなくて。
「せっかく十六になって働ける年齢になったから家から出してあげたのに、ろくな仕事にも就けず家にお金すら入れてこない役立たずでした。顔だけは綺麗なので、いつかお金持ちでも捕まえて、家にお金を入れてくれたら……って思って見守っていたんですけど……。――まさか長谷川建設さんの社長に見初められるなんて。あの子もやっと役に立ってくれて嬉しいんです」
(母さんは僕を助けるために家から出してくれたんじゃないの……? 僕は役立たずだったの……?)
確かに僕は役立ずだ。
母さんが家から出してくれたのにまともに就職も出来ずに閉じこもるような生活をしていた……けど、ずっと僕のことを陰から見守ってくれていたんじゃないの?
「……本気で言っているんですか?」
「ええ、本気です。まさかあの長谷川建設さんの社長が男の深月を囲って……私の大切な息子を囲ってタダで済むだなんて思っていませんわよね? それ相応の対価を求めているだけです」
「……深月くんに幸せになれと泣いたあの言葉は何だったんですか?」
「そんなの、大切な深月の前じゃあ、幸せを願うに決まってるじゃないですの。――私たち夫婦のために大切な、ね。深月もこれで将継さんのそばにいられる。幸せでしょう?」
「っ……いい加減に――」
将継さんが母さんに怒鳴りつけようとしたその瞬間――。
僕の手は勝手に襖を開けていて、僕の存在に気付いた将継さんが、母さんが、驚いたように視線を投げ掛けてきた。
ぽろぽろと、頬に次から次へと雫が落ちる。
「ごめ、なさい……約立たずで……ごめんなさい……母さん……。将継さん……僕のせいで、嫌な思いさせてごめんなさい……でも……僕は、母さんみたいに、将継さんにお金の無心するために、一緒にいたんじゃない……」
それだけ呟いたら、背中に将継さんと母さんの声が刺さったけれど、僕は座卓の上のスマートフォンを持ち出すことすらも忘れて外へ飛び出していた。
最初のコメントを投稿しよう!