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病院前のバス停で下車すると、僕は受付に保険証と診察券を出してロビーに座って予約時間の十時を待つ。
時間潰しにおもむろにスマートフォンを取り出してみると、先程電話番号を交換した長谷川さんの名前がそこにあって。
母と、病院と昨夜バックレたコンビニの店長の番号しか登録されていない僕の電話帳に新しい人が増えた。
それが何だか心がソワソワするような、でも、僕のくだらない毎日に変化の兆しを感じるような、なんとも言えない気分になる。
やがて時刻が十時になって、診察室の扉が開いて「十六夜さーん」と名前が呼ばれて医師と二言三言会話をして、最早ラムネなんじゃなかろうか?という薬の処方箋を貰う。
それから――。
ロビーから少し離れたカウンセリングルームの個室の前で小さく吐息をこぼして気合いを入れて、静かにノックした。
中から「どうぞ」という声が聞こえて扉を開けると、臨床心理士の久留米先生に笑顔を向けた。
「おはようございます、久留米先生」
ペコッと会釈して誘われるまま、フワフワと座り心地の良いソファに着地すると、先生は極上の笑みを向けてくる。
「おはよう、深月くん。元気だった?」
月に一度だけ会うこの先生に、僕は面映ゆくて仕方がない。
「……元気でした」
「そっか、良かった。この一ヶ月はどうだった? 何か変わったことはあったかな?」
そこで僕の脳裏に今しがた、笑顔で送り出してくれた長谷川さんの顔が思い浮かぶ。
「あの……。昨日、なんですけど……僕、またバイトをバックレて居酒屋でヤケ酒してたんです。それで……、飲み過ぎて意識を失っちゃって……男性に拾われてしまいました」
久留米先生が、強面の、だけど笑うと弧を描くように優しいその瞳の上の眉根を、少しだけピクリと寄せたのは気のせいだろうか。
「拾われた?」
「はい……。目が覚めたら知らない男性の家にいて、僕、怖くてお礼もそこそこに逃げようとしちゃって……。でも、彼が僕のために色んなことをしてくれて……。こんな人に会ったことがなくて戸惑ってて……それに――」
そこで僕はコートのポケットにしまい込んでいた鍵を取り出して先生に見せると、再び言葉を続けた。
「これ……彼の亡くなった奥さんの形見の合鍵らしくて……。お礼がしたいなら僕と食事をしたいから病院が終わったら戻ってこいって……」
久留米先生が、鋭い視線を僕に向けた。
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