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とりあえず、彼が甘いものを食べられるのかは謎だったけれど、僕は半ば無意識に病院前のコンビニからタクシーを呼んでケーキ屋に向かった。
山小屋のようなその外観の建物は、早くに父を亡くして、まだ母子家庭だった頃の母さんがよく連れて来てくれた場所だ。
たくさんの緑に覆われた中にポツンと建っている、こじんまりとしたその店は、幼い頃に見たままの風景で思わず頬が綻ぶ。
入口には大きな切り株のような看板に『リリアンベルグ』と店名が書かれており、すぐそばの小窓から厨房が見渡せるようになっている。
店内に足を踏み入れる、すっかり老夫婦になっているパティシエールの奥さんと、パティシエの旦那さんが「いらっしゃいませ」と笑顔を向けてくれて、時の流れを感じた。
――母さんと二人で来た時にはあんなに若かったのにな。
目の前のショーケースには、甘党の僕には目移りしてしまいそうな程、咲き薫るような様々なケーキが隣り合っている。
僕としてはどのケーキでも問題ないけれど、長谷川さんが甘いものを食べられるかは定かではないし、食べられなかったら無駄になってしまうから自分の分と二つだけ買おうと考える。
まずは自分の大好きな、栗がゴロゴロと包まれた食感が楽しいロールケーキ――マロンスフレを奥さんに告げる。
彼には何が良いだろう……と、しばし長考していると、奥さんに「五年くらい前からここの定番になってる、桃のシャンパンムースがお勧めですよ」と声を掛けられて。
そういえば彼の家には食器棚の隣に小さな酒棚があったなと思い出す。
(僕はてんで下戸だけど、長谷川さんはお酒が好きなんだろうな?)
甘いものが食べられなかった時の安牌としていいかもしれない、と奥さんにそれを頼んだ。
たった二つだけなのに店のロゴが入った大袈裟なケーキボックスに入れてもらって、なんだか申し訳ない思いになる。
店を出て、スマートフォンでタクシーを呼んで待っている間、改めて店の外観を見つめて、(母子家庭だった頃は幸せだったな……)なんてことを思って少しだけ胸が痛んだ。
母さんにとって再婚は喜ばしいものだったはずなのに、義父が僕にした仕打ち、それを見て見ぬふりした母さんの気持ちだって穏やかなものではなかっただろうから。
もしかしたら僕は、幼い頃に望んでも得られなかった父親像を、あの優しい長谷川さんに投影しているのかもしれないな、とぼんやりと思った。
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