03.憂い【Side:十六夜 深月】

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 もう、とっくに忘れてもいいはずなんだ。  あんなたった一年間の屈辱なんてもう十年以上も前の話だし、さして珍しい話でもない。  よくある、性的虐待というやつだ。  物心つかないうちに父が病で亡くなって母子家庭で育った僕に、中学三年生の時、母さんが再婚して父親ができた。  その義父()に一年間、陵辱され続けて過ごしたのだ。  母さんは虐待に気付いていたのに、再婚したばかりの夫を庇っていたのだろうか最後まで見て見ぬふりを貫き通した。  僕は中学を卒業するとすぐにアルバイトを始めて、母さんがせめてもの温情で名義だけ貸してくれて借りられたアパートに逃げ込んだ。  けれど、心に深く刻まれた傷で僕は精神科の門をくぐった。  高校に進学することも出来ず、アルバイトを転々としながら今日(こんにち)まで生きてきて。  アルバイトで稼いだお金は、精神科の受診料と賃料三万五千円の薄汚れたアパートの家賃とスマートフォンの維持費に(はかな)くも消える。  まともなご飯さえ食べていない。  今、座っているこの居酒屋のカウンター席から見える厨房から漂ってくる心が温かくなるような、どこか懐かしい手料理の匂いが鼻腔をくすぐって、何だか涙が浮かびそうになると共に腹の虫が鳴いた。 (お腹空いたなぁ……)  空きっ腹にアルコールを入れて頭が朦朧としながらも、いい加減店を出なきゃな……と、思うのに身体が言うことを聞かない。  そろそろ帰って眠らなきゃいけないのに、また一人ボロアパートに帰るのかと思うと、この居酒屋はずいぶんと温かく、僕の足を引き留める。  明日も病院がある。  通っている精神科で治療を続けているのは、義父(あの男)のせいで罹患した病気。  そう──。  ED、すなわち勃起不全の治療だ。
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