エルオーロの港町

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エルオーロの港町

 エルオーロの西の外れの港町に着いたのは、夜もすっかり更けた頃だった。しかし、夜の闇の濃度を薄めるように明るく照らし出された港町は、ヒラクにとって想像を遥かに超える光景だった。  ランプの光は店の隙間から溢れ出し、道は白く浮かび上がるほどに明るい。ヒラクの故郷アノイでは、こんな時間に人々が活動することなどなかった。山の夜はひっそりと暗く、外を行き交うのは獣だけだ。  ところがここでは、夜もまったく関係なく、人々は行き交っていた。  フェルト帽をちょこんと頭に乗せた男たち、頭に白いターバンを巻いた褐色の肌の若者、のっぺりとした顔の老人が混じり合い、一様な夜の中でも、各々が異彩を放ってぶいた。肩をむき出しにした派手なドレスの女や、大きな籠を頭に乗せた粗末な衣服の女が、その中に交じりながら歩いている。  開け放たれた店の中では、酔客たちが大きな笑い声をあげている。その声は、海の音をかき消すほどだった。夜の静寂を打ち破る街の賑わいに、ヒラクは驚きながらも興奮した様子で、目をらんらんと輝かせながら、往来の人々を見ていた。  やがて、ジークは酒樽が積み上げられた店の前で足を止めると、ヒラクたちを外で待たせ、一人で中に入っていった。  数分後、ジークは店から出てきてヒラクに言った。 「この店の二階に部屋を取りました。今晩はここでお休みください」 「こんなうるさいところで寝るの?」  ヒラクは一階の酒場で大騒ぎしている客の男たちを見て言った。 「こんな夜更けにまともな宿を探すより、酔いつぶれた客を泊めて宿代を取るような店の方がすんなり泊まれるんでさぁ」  ハンスは人差し指で鼻の下をこすりながら笑って言った。 「一部屋しかないので、申し訳ありませんが私たちも同室で休ませていただきます」  ジークはヒラクにそう言って、店の横にある急な階段を上っていった。  ヒラクとユピもその後に続く。  階段を上がりきると、壁の片側にドアが二つ並んでいた。  ハンスはジークのそばに来てにやりと笑って小声で言った。 「最初から一部屋しか取らなかったんだろう?」  ジークは答えず、ただじっと、部屋に入るユピを見ていた。  ヒラクはジークにいわれるまま、二つしかないベッドに横になると、そのままあっというまに眠りについた。                             そして、ヒラクの感覚では一瞬で朝が来た。  ヒラクは板床のきしむ音で目を覚ました。  窓枠の上部から吊り下げられた薄布を通して朝の光が差し込んでくる。  まぶしさを感じるが、ヒラクは毛布のぬくもりにまどろみ、なかなか起きる気になれない。  それでもヒラクは上体を起こして、窓に向けた背に光を受けた。  どこかから吹き込む冷たい隙間風が冬の気配を漂わせるが、背に当たる朝の日差しは暖かい。  ヒラクが寝ていた小さなベッドの隣にもう一つベッドがある。  窓側の壁に頭を向けて眠っているのはユピだ。  昨夜、二人のベッドの間の床に割り込むように寝たハンスは、木の床をきしませながら、腕を振り回して体をねじるようにして歩いている。  ドアの前の床に座り込み仮眠をとっていたはずのジークはいない。 「何やってんの?」  尋ねるヒラクを横目で見ながらハンスは動きを止めずに答える。 「寒いのを紛らわせながら、体をほぐしてるんでさぁ。床で寝るのは慣れてますがね、寝返りも打てなくてまいりましたよ。おまけに昨夜の連中、朝まで大騒ぎでしてね。床下から笑い声が響いてうるさくて寝られやしない」 「だったら何もそんな狭いところで寝なきゃよかったのに。だからおれはユピと一緒に寝るって言ったんだ」 「そんなことされたら俺はジークと一つのベッドで寝なきゃいけなくなりまさぁ」  そう言って、ハンスはおどけたように首をすくめる。  昨夜もこんな調子で、結局ハンスは狭い部屋の二つのベッドの間に割り込むようにして毛布にくるまりながら寝た。 「ちっ、図々しくよく寝てやがる」  ハンスはうらめしそうにユピを見た。  ユピはぴくりとも動かず、目を覚ます気配もない。 「疲れているんだよ。それよりジークは?」  ヒラクはハンスの気をそらすように言った。 「食べるものを買いに行きやした。それからエルオーロから俺たちの国に行く船を調べにね。もう戻る頃でさぁ」  その言葉通り、まもなくジークは紙袋を抱えて部屋に戻ってきた。 「お目覚めですか」  ジークはヒラクにそう言うと、ユピにちらりと目をやった。  「昨夜あなたはすぐ休まれたようでしたが、彼はなかなか寝つけずにいたようですね」 「ユピが?」ヒラクはジークに聞き返した。 「寝返りを打ってはため息を繰り返していました」 「全然気づかなかったぜ」  とぼけた顔でつぶやくハンスにジークはそっけなく言う。 「おまえはぐっすり寝ていたからな」  ヒラクは急に心配になり、ユピのかたわらに来て顔を覗き込んだ。 「……ユピ?」  ヒラクはユピの頬にそっと手を当てた。  陶磁器のようなユピの肌に体温を感じて、ヒラクはなぜかほっとした。  だがユピは目を覚まそうとしない。 「ユピ?」  ヒラクはさっきよりも声を強めた。  ユピはまぶたをかすかに動かし、ゆっくりと目をあけた。 「ここは……どこ?」  ユピの青い瞳が不安そうにヒラクを見た。 「えーと、確かエルオーロってとこの港の近くだよ。ここはもうメーザだよ」  ヒラクにそう言われても、ユピはまるでわからないといった様子でぼんやりとしている。 「僕……眠っていたの? いつから?」  ジークとハンスは不審な目でユピを見た。 「いつって、昨夜ここに来てからだよ。何も覚えてないの?」  不思議そうに言うヒラクを見て、ユピは戸惑った。 「どこからどこまでが夢なのか……。いつから夢を見ているのか、なんだかよくわからないんだ。君と朝の光の中を船出する夢を見た。  だけどいつのまにか僕は一人で、辺りは闇に包まれた。君が僕を呼ぶ声で、世界は色と形を取り戻したんだ。  これもまた夢だろうか。僕はまた夢の中で目を覚ましたの?」 「何言ってるんだよ、夢じゃないよ。ほら!」  そう言って、ヒラクは横にいたハンスの頬をつねった。 「いてっ、こういうときはねぼけている相手の頬をつねるもんでさぁ」  ヒラクは大げさに痛がるハンスをおもしろがったが、すぐにジークが抱える布袋の中身に興味を移した。 「ジーク、それ何?」  ジークは布の袋の中からパンやりんごやソーセージを取り出した。 「何これ?」  ヒラクは、パンを手に受け取ると、その重さに少し驚いた。  パンは硬そうな外皮を持っていて、その中身はゴツゴツとした食感が見て取れた。   ヒラクはパンに鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いだ。 「へぇ~、パンも知らないんですかい。そいつは食べ物でさぁ」 「ふうん、おもしろいね」  ヒラクはハンスの説明もあまり耳に入っていない様子で、パンとソーセージをかみちぎった。  朝食を食べ終えると、ヒラクは町の様子を見に行きたくなった。 「ユピ、行こう」 「お待ちください」  ユピの手を引くヒラクをジークが止めた。 「何?」  ヒラクは口をとがらせる。  ジークはヒラクからユピに目を移した。 「着替えだ」  ジークは朝食の入っていた袋とは別の布袋をユピの前に投げた。中には色あせたシャツと糸のほつれたズボンと目の粗い毛織の上着が入っていた。  何の準備もなく船に乗り込んだユピは、航海中はヒラクの着替えを借りることが多かったが、サイズが合わなかったため、船を降りる際、神帝国の時の衣服に着替えていた。 「脱げ。その格好じゃ目立ちすぎる」  ジークはユピの格好を上から下まで眺めて言った。  ユピは絹のシャツを着て、ひざですそをしぼった紺色のズボンをはいていた。寝る前に脱いだコートはなかった。 「上着は処分した。あのような上等な服はもう必要ないだろう。おまえはもう神帝国の皇子という立場ではないのだから」  そう言って、ジークはユピの反応を見た。  ユピは何も言わず、黙って着替え始めた。 「何だかユピがかわいそうだ」  ヒラクはぽつりとつぶやいた。 「あなたにそのような格好をさせていることの方がよほど申し訳なく思います」  ジークはヒラクを見て言った。  ヒラクはジークやハンスと同じように薄汚いシャツを着て、だぶついた吊りズボンをはいている。そしてその上に目の粗い素材の上着をはおっていた。 「何で? 動きやすいし楽でいいよ。何か変?」  自分の格好を確かめるように見るヒラクにハンスは言う。 「いえいえ、とてもよくお似合いです。どっからどう見ても水夫見習いの小僧ってとこでさぁ」 「ハンス、失礼だぞ」  ジークはハンスをたしなめる。 「失礼? ああ、そういや勾玉主は女の子……でしたっけ?」  ハンスは改めてヒラクを見た。  見た目にはまだ性別の区別もつかない子どもの幼さがあるが、ヒラクの表情やしぐさが少年くささを感じさせる。航海中、甲板に出ていることも多かったため、肌も少し日に焼けている。  ハンスがヒラクをしげしげとながめている間に、ユピは着替えを終えていた。  ヒラクたちと似たような格好をしてはいたが、ユピにはみすぼらしさを感じさせない気品がある。  それを見て、ジークは眉をひそめていた。ユピの人目を引く美しさを快くは思っていない。しかしそれ以上に気になるのは、ヒラクの髪の色だった。 「これをつけてください」  そう言って、ジークはヒラクにフードつきケープを差し出した。 「エルオーロには様々な国の者たちが出入りしています。ここから目的地に着くまでは慎重に行かねばなりません」  ヒラクは母親ゆずりの鮮やかな緑の髪と琥珀色の瞳を持っている。  ノルドの水の神プレーナそのものであるとされた緑に発光する水を直接体内に摂取してきた者の特徴で、そのような風貌をした者は今はもうヒラクの他にはいない。  ヒラクはジークに渡されたフードをかぶった。一際目立つ美貌のユピもつばのたれた帽子をかぶり、顔を隠すようジークに言われた。  ジーク自身も、刀帯に下がる剣が目につくことのないように、厚手のマントでしっかりと覆い隠していた。  それぞれの服装を確認すると、さらにジークはヒラクに言う。 「それから、今話している言語で話さないようにしてください」  今話している言語とは、ヒラクとユピが共通言語として使うヒラクの母語で、神帝国では禁じられた言葉であり、プレーナ教徒たちに「祈りの言葉」と呼ばれているものだ。  それでもヒラクにとっては故郷の言語のアノイ語と同じぐらい使い慣れた言語であるため、ジークの言葉に戸惑った。 「なんで? ジークもハンスも話せるし、別に不便はないだろう?」  そう言うヒラクの言葉をジークはあっさり退ける。 「この言語を使用できるものは数少ない。実用性がないことに加え、あなたの特徴を示すことにもなります。その髪と同様に人に印象づけるようなことは避けるべきです」 「じゃあ、どうやって話せばいいの?」 「この言語でお話ください」  ジークは神帝国の言語を使って話した。 「わかりますね?」 「……だけど、これは、神帝国の言葉だよね?」  ヒラクは一語一語確かめるようにジークと同じ言語で言葉を返した。 「メーザでは多くの国々でこの言語が使われ、公用語となっています。私の国でもこの言語は第二言語として広まっています。どの国でも共通語として広く使われているので、『世界語』と呼ばれています」 「神王の国の言語が、神王がメーザを支配していた時代に一般化したんでさぁ」  ハンスがつけたした。 「つまり神王が広めた言語ってわけです。神王の国家は否定しても言語の支配は受け入れるってわけだ」 「利便性があるというだけだ。言語に支配力などない」  ハンスの皮肉にジークは眉をひそめた。 「支配力がないっていうなら、どういうわけで神帝も神王も『神語』の利用を禁じたんだ?」 「シンゴって何?」  ヒラクはようやく口を挟んだ。 「神語とは……」 「ちょっと待って」  ヒラクは使い慣れた母語でジークに言った。 「神帝国の言語で難しいこと言われてもよくわからないよ。今までの話だって聞き取るだけで精一杯だ」  ヒラクは幼い頃から一緒に育ったユピの国の言葉である神帝国の言語を多少は理解できる。だが、聞き取ることはできるが、語彙が少ないために何のことを言っているのかがわからない。 「わかりました。今はあなたが聴き取れるこの言語を用いるとしましょう。ですが、外では一切話しません。あなたも早く『世界語』に慣れるようにしてください」  ジークはヒラクに合わせて言語を変えた。 「『神語』は神に通じる者の言葉と言われています。古代の神に関する記録や文献のほとんどがこの言語を用いて記されています。そのため、神事にたずさわる者や宗教学者の中には『神語』を理解する者も多い」 「おれは、母さんが話していた言葉だったから、たまたまこの言葉を話せただけだよ」 「あなたの母上が『神語』を話されたのは、神王ではない神の信仰者だったからではないですか?」  ジークに言われてヒラクは驚いた。 「うん、そうだよ。どうしてわかるの?」 「神王以外の神を信じる者たちの間では『神語』を聖なる言葉として扱い、使用することもあります。そういった者たちはメーザでは神王に異端者として扱われました」 「なんかよくわからないなぁ。神さまと言葉って何か関係あるの?」  考え込むヒラクにジークが言う。 「今はあまり難しくお考えにならず、この先『神語』を使わないようにということだけ気をつけてください」 「……わかった」 「それじゃ、行きますか」  ハンスは話に飽きたように生あくびで言った。  そんなハンスを戒めるようにジークは厳しい顔つきで言う。 「気を引き締めて外に出ろ。周囲の注意を怠るな」 「へいへい」  ハンスは首をすくめて部屋のドアを開け外に出た。 「さあ、行きましょう」 「ジークの国へ?」ヒラクはジークに尋ねた。 「まずは黄金王の神殿へ」 「黄金王? 神殿?」  ヒラクは単語を確かめるように聞き返した。 「エルオーロは黄金王が生まれた地です。ここには太陽神の化身とされた黄金王を祀る神殿があります。まずあなたにはそこに行っていただきます」 「どうして? 黄金王って誰?」  聞きたいことは山ほどあるが、ヒラクの口からすぐ出る言葉は、「どうして?」、「誰?」、「何?」だけだ。そしてジークも簡潔にヒラクの問いに答える。 「黄金王は最初の勾玉主であったといわれている方です」 「最初の勾玉主?」 「ここで説明するよりは……」 「神殿に向かう。行こう、ユピ」  ジークの言葉を遮って、ヒラクはユピを連れて外に出た。  最初の勾玉主である黄金王とは何者か?   知りたいという思いがヒラクを神殿へと急がせた。
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