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桜木渓の苦悩
「ねーえ、ケーチャン」
いつになく甘ったれた声で彼女は俺の名を呼んだ。
帰宅したときから冴えない表情だったから、何か悩んでいるであろうことはわかっていた。
共学に通い始めてただでさえ心配事は尽きないというのに、高校生になってからは早くも貞操の危機を思わせる事件(大袈裟)が頻発している。これでは俺の心臓はいくつあっても足りやしない。おかげで肝なんてもうとうの昔に凍りついている。
今回もきっと彼女は何かをぶっ込んでくるに違いない。
宝条波瑠一筋である俺の勘がそう言っているんだ。だから身構えピーマンを千切りすることに集中した。
「ねーえ、ケーチャンってば聞いてる? 呼んでるんだけど」
いつの間にか勝手に人のベッドの上で寝転んで寛ぐ問題児JK。横目に見ればすらりと伸びた色白の肢体が丸出しだった。
まったく人の気も知らないで。
悲しい哉、それだけ心を許せて安心できているのかと思うと嬉しい反面、複雑な気持ちになる。
ひとりの男として見てほしい気持ちをまだすべて捨てきれたわけではない。しかしそれを望めば、波瑠の居場所であるこの関係を壊してしまう。
俺は無条件で信頼のおける彼女の家族であり、幼馴染であり、また友人なのだ。
その関係を望むにはあまりにも代償が大きすぎた。
「あ、今日チンジャオロースだ! けーちゃんのそれ大好き」
鼻をクンクンと鳴らしご機嫌な声を上げる。
“だから作ったんだよ”
そんな様子を眺めながら心中でそう呟く。
ピーマンを千切りするのも細切りした牛肉に片栗粉をまぶすのもなかなかに面倒だ。出来合いの市販のソースを使えば少しは楽なんだろうけど、嬉しそうに食器の用意をする波瑠を横目に思う。
どんな面倒事も彼女の笑顔にかかれば全部がチャラになるんだ。
「――で、波瑠、さっき話そうとしてたことなんだった?」
食卓の上を整えてから俺はしぶしぶ切り出した。
“ああ”と言うと途端に癒やしの笑顔が消えてしまった。穏やかではない空気が漂う。
今回の爆弾は大きいかもしれないと俺は腹を括った。
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