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控えめに開いた玄関の扉から顔を覗かせたのは先ほど怒って帰っていった波瑠だった。
「……」
無言のまま上がり俺の隣まで来た。不機嫌そうな顔は健在だったが、どこか落ち着かない雰囲気だ。蛇口を捻ろうとした手を俺は止めた。
「波瑠、どうしたの――」
「これ……」
言葉を遮るように突き出したのは一つのアイスの袋だった。それはあずきのモナカだった。
「なにこれ」
「あげるって言ってるの。ほら、洗い物は私がするからあっちで食べてて」
目も合わさずぶっきら棒に言い放つと彼女は俺から食器洗いを奪った。
直後、ジャーっと勢いよく水の出る音が響く。彼女の少し後ろで汗をかきはじめたアイスを片手に俺は立ち尽くしていた。
あー、これはもしかしてアレか。
無言の背中から何となく感じ取ってしまう。
素直になれない彼女の精一杯の“ごめん”。
愛おしくて堪らなくて今すぐにでも抱き締めたくなる。諦めて何度も捨てて来たはずなのに性懲りもなくまた溢れ出す。境界線を超えてはいけないと今し方、反省したばかりだというのに。
「あ、モナカ。半分置いといてね。私も食べるから」
慌てたように少しだけ振り返り彼女はそう言った。
正直小豆はあまり得意ではなかったし、もっと言えば今食べるつもりもなかった。だけど彼女のその一言で俺はアイスの封を切ったのだった。
“一緒に食べよう”という愛しい人からの誘いを断る理由なんてひとつもないから。
キッチンの椅子に腰を掛け、彼女の後ろ姿を眺めながらアイスを一口かじる。
小豆特有のザラザラとした甘さが口に広がった。口内に残るざらつきと豆の香りにやはり苦手だと思った。
「美味しくない?」
いつの間にか洗い物を終えた彼女が向かいに座った。
無造作に結ばれたポニテールが可愛くて堪らない。
「けーちゃん、あずき苦手だったもんね。でもね、これバニラアイスもいっぱい入ってるし美味しいってSNSでもバズってたやつなんだよ。ていうかデザートは今これしかなくて…………ごめん」
アイスくらいであまりに申し訳なさそうに謝るものだから食べる手を俺はつい止めた。
「小豆くらい別にいいよ。普通にうまいし」
「……違うの」
「波瑠?」
「さっきは言いすぎたから……その、ごめん。別に本当に思ってるわけじゃないから」
照れ臭いのかアイスを勢いよく頬張った。
そして“うん、やっぱり美味しい”とそう言った。
なんだよ、その不意打ち。いやさっきから不意打ちばかりだけど。こんなの可愛すぎるだろ。
沸々と湧き上がる邪な感情に苛まれながら、嬉しくも撤回された保護者ヅラの発言。
図星すぎる指摘があまりにもショックで忘れ去られていたが、そのあとにはもうひとつ問題発言があったことを俺は思い出した。
“今度からは他の人に聞く。もうけーちゃんには何も聞かないから!”
宝条波瑠は時折、爆弾発言をするきらいがある。これは母親譲りか純粋無垢すぎるあまりかはわからない。しかし俺以外の人間にこんなハレンチな相談をされていては、何度も言うが俺の心臓はいくつあっても足りやしない。
ここはきちんと確認しておく必要がある。
俺は座り直すと彼女を見据えた。
「なあ、波瑠」
「なに……? 急にマジメな顔して」
「大事なことだから言っておきたいんだけど」
「うん」
「さっきの、俺にはもうなにも相談しないってやつ。波瑠が心配で、俺も少し出しゃばりすぎたと思う。ごめん」
「いいよ、もう。事実、けーちゃんには色々とお世話になってる身だし」
なんだ、そんなこと。と言わんばかりの口調で彼女は俺を軽くあしらった。変な焦燥が俺を襲う。
「波瑠」
「ん、なに?」
俺の心も露知らず彼女はもうすっかりテレビに夢中だ。
焦燥の前では境界線は曖昧だった。どこまでだなんて、俺自身だって多分わかっていない。いつも揺れ動いて見失って、いつだって目の前の彼女しか――宝条波瑠しか見えていないんだ。
「他のヤツはダメだから」
「へ?」
「だから……波瑠の相談は今後も俺が聞くって言ってんの。わかった?」
みっともなく嫉妬をむき出しにすれば、彼女はキョトンとした。かと思えばパッと顔を反らされてしまった。
「なに必死になってんの、バカ」
「バ、バカ?!」
「そうよ、バカ! 大バカ! こんなこと、けーちゃん以外に相談できるわけないでしょ……」
“全然わかってないんだから”とそのあと彼女は零した。
どうやらわからず屋は俺の方だったようだ。
拗ねたように頬杖をつき、いつの間にか食べかけの俺のアイスを横取りし“溶けたら美味しくないんだから”と彼女は小言を吐きながら頬張った。
突然の間接キスにモヤモヤしたのは波瑠には秘密だ。
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