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不安な夜は
午後六時、終業ちょうどに携帯が鳴った。
光るディスプレイ。そこに見えたのは宝条皐の名前だった。
俄に心がざわつき始める。今日は少しだけ残業をしようかと思っていたがメールを見て、その意志はすぐに掻き消された。
そこには“仕事、お疲れさまです。お手隙に連絡ください”とだけ書いてあった。
終業ちょうどに連絡をするくらいだ。きっと俺の仕事を気遣ってのことだろう。それくらい急いでいる用件ということは安易に想像できた。
俺はデスクを片付けるのを後にしてすぐに皐さんへ電話した。
「もしもし――」
「あ、渓くん? ごめんね、仕事だったでしょ?」
気遣う前置きはいらなかった。母親からの頼み事なんてひとつしかない。俺は早く用件が聞きたかった。
「大丈夫です。それより、どうしたんですか? 波瑠に何かありました?」
食い気味の俺に皐さんは話が早いとばかりに少し安堵したように話し始めた。もちろん内容次第ではすぐに帰宅する心積もりだった。
皐さんの話によると今日、熱発により波瑠は学校を休んだとのことだった。
その日朝から仕事だった皐さんは会社へ連絡し、午前から午後へのシフトに変更してもらったそうだ。
本当なら彼女を病院へ連れて行きたかったが、高熱によりかなり体力を消耗していたようで午前中はほとんど眠っていたようだった。昼頃には高熱も少し落ち着いてきたため皐さんはそのまま出勤した。
しかしそれ以降娘からの連絡もメールの既読もつかないため、そろそろ帰宅するであろう俺に様子を見てほしいと一報をくれたということだった。
「寝ているだけだとは思うんだけど……午前中も何も食べていないし、少し心配で。こんなことお願いできるの渓くんしかいないから――」
既にデスクに戻っていた俺は携帯を肩で支えながら片付けを終え、電話を切ったのだった。
「血相変えてどうしたんだ、桜木」
慌てて帰り支度をする俺に池南課長は何事だと言わんばかりの口調で言った。しかし俺は素早く向き直ると一礼した。
「身内が体調悪いみたいで……すみませんが、お先に失礼します」
今は、いや今までも彼女よりも大切なものなんて俺にはなかった。悩んだりつらいときには側にいたいし頼ってほしい。それは小さい頃からずっと変わらない俺の思いだった。
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