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俺はコンビニで熱冷ましや水など適当な物を見繕うとすぐに電車に乗った。
家までの道のりがこんなに遠く感じたことがあっただろうか。電車に乗っているこの時間さえも惜しい。
満員電車に揺られ、窓ガラスに映った自分を見て思う。
なんて余裕のない顔してんだ……。
もしかしたら皐さんはそれを見越してわざと彼女の体調が悪いことを俺に言わなかったのかもしれない。その証拠に今朝、ベランダで挨拶を交わしたときには何も言わなかったのだ。
もしあのとき聞かされていたらきっと仕事が手につかなかっただろうから。
彼女がもう子供ではないことは俺もわかっている。俺だって高校生くらいのときには体調を崩して学校を休んでも親は普通に仕事へ行っていた。過保護だという自覚も十分にある。あるにはあるのだが――。
寝ているところを起こさないよう細心の注意を払って玄関の扉を開けた。
突き当たり居間の右側に彼女の部屋へ続く襖がある。勝手に開けることは少し躊躇われたがその手をすっと引いた。
「……」
熱のこもった空気。換気も兼ねて窓を少し開けた。
近づけば窮屈そうな寝息が聞こえてきた。皐さんが心配していた通り、用意された水も薬も波瑠が口をつけた形跡はなかった。
「ん……おかあさん?」
「ごめん、起こした? 俺だよ。波瑠」
「けーちゃん……? なんで……」
「皐さんから連絡もらって様子見に来た。具合はどう?」
「え……いま何時?」
「夜の七時前だけど」
「そうなんだ……。ダルいのはだいぶマシになったと思う」
「それなら良かった。何か食べられそうか? 薬を飲まないといけないから――」
立ち上がった俺はそれ以上動けなくなってしまった。振り返れば俺のスーツを掴む波瑠がいて、一瞬狼狽えた。
「あ……ごめん。なんでもない……」
「大丈夫、波瑠。どこにも行かないから」
俺は座り直すと彼女の頭を撫でた。その拍子に床に落ちたのは彼女の涙で、それだけでもう十分だった。俺はそのまま彼女を抱き締めた。
「っ……」
俺の腕の中で波瑠は一瞬、びくっとしたがそのまま縋りつくように俺の背中へ手を回した。握られた手の強さからもわかる、彼女が抱えていた不安と寂しさ。もしかして怖い夢だって見たのかもしれない。途中で目が覚めて誰もいない部屋に寂しくなったのかもしれない。
「大丈夫だよ、波瑠」
波瑠が俺を必要としてくれている間はどれだけだって、俺は傍にいるから――。
そんな思いを込めた腕で波瑠を抱き締めた。
伝わったのかどうかはわからない。
だけど、俺の腕の中で“急いで帰ってきてくれてありがとう”と零す彼女に、俺はまた性懲りもなく彼女への思いを募らせるのだった。
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