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オジマンディウスのときは死角からの不意打ちだった。タルドゥに預けた隠身の皮衣があってのことだ。
今回は、待ち構えている敵のまえに飛び込んで行かなければならない。
戦いながら罠をかいくぐり、隙を探し出して一息に突く。
アシュタロテがやらねばならないのは、そういう戦闘だった。
太母神は玉座に腰掛けたまま動かない。奇妙な玉座だ。太母神の身体を包み込むようにできていて、不自然なふくらみが背後にある。
周囲は肉の壁だ。霊子の流れを感じる。玉座の間全体が生きている。とすれば、何が起きてもおかしくはない。
廃都で身に着けた呼吸法で、自身の霊子の流れをさぐり、整える。
残り時間は短いが、別に今すぐというわけではない。
ならば戦って、勝ちをとって死ぬ。
だからアシュタロテは言った。
「初めまして、太母神様。あなたを殺しに来ました」
いきなり足元に口が開いた。比喩ではない。人の背丈ほどの幅のある牙のある顎が、突然肉の床に出現したのである。
咄嗟に電光となって真横に飛んだ。
大顎は床からにゅっと伸び出し、異様な素早さで追いかけてくる。
そればかりではない。左右の壁からも天井からも大顎が出現している。
アシュタロテは電光となる。再出現するとすかさず大顎が追いかけてくる。また電光となる。繰り返しだった。
出口の方向に飛んだ。しかし、さきほどアシュタロテが入ってきた扉はすでに閉ざされている。
--逃しはせぬぞ。
太母神のあざ笑うような思念が届く。
四つの大顎がまっすぐにこちらに伸びてくる。思った通り、その中心に隙があった。
槍を投じる。
雷精の力が乗るように、柄から穂先まで銅で作った特製のジャベリンだ。
太母神が化け物じみた悲鳴をあげる。
槍は、あやまたずに胴体の真ん中を貫いていた。
アシュタロテは電光化する。太母神の目の前に再出現。槍を引き抜き、また電光化し、玉座の右側に転移する。
大顎は追ってこない。太母神の気がそれているためか、玉座に近づきすぎないよう仕込まれているのか、わからない。
玉座に座した巨大な肉塊は、胸の傷から血をほとばしらせてもだえ苦しんでいる。
玉座は太母神を包み込むようになっていて、横からでは射線が通らない。正面空中に転移し、喉元に槍を突きとおす。
(おかしい。簡単すぎる)
アシュタロテの一瞬の直観は正しかった。
太母神の喉元の肉が盛り上がり、触手のように伸び出し、突き立った槍をからめとり、飲み込んでしまった。胸元の傷口も消えている。
アシュタロテは落ちながら雷撃を放った。
効かない。対策されている。
玉座の上に落ちる前に再転移。新しい槍を取り出す。
目に突き通し、脳をえぐる。
神は霊子の構造体であって肉体はその模像、見せかけのものに過ぎないが、霊子構造体にも急所はある。ただし破壊するには雷気のような精霊力を流し込む必要がある。太母神の贅肉が雷撃に耐性を持っているとしても、内部の脳や心臓や太陽神経叢は、精霊力で霊子構造を破壊できる。それは廃都で死んだコロッサスたちから学んだことのひとつだった。
しかし、手ごたえがない。流し込んだ雷気が散逸する。
(こいつの中身はどうなっているんだ?)
戸惑いが、一瞬の隙を産んだ。
五番目の大顎が突如床から飛び出す。電光化は間に合わなかった。大顎は音をたてて閉じ、アシュタロテは肉の壁のなかに閉じ込められた。
雷気が通らないのは試してみるまでもなかった。太母神の狙いは最初からこれだったのだ。
電光化は出発点と目的地があってはじめて可能になる。その二点のあいだに雷気が通らなければ転移は不可能だ。
大顎はどろどろと溶けるように形を変え、アシュタロテを隙間なく包み込む被膜となった。その手足を、床と壁からのびてきた触手がからめとり拘束する。アシュタロテにはかすかに外界が見えた。だがそれだけだ。指一本動かせない。
「うふっ、くふふっ」
狂気をはらんだ笑い声を漏らしながら、太母神がはじめて玉座から立ち上がる。
玉座後部のふくらみから無数の管がうねうねと伸びて、太母神の後頭部につながっている。群がる蛇のような管を引きずりながら、肉塊はゆっくりとこちらに歩いてくる。
まるまると太った指に、左の二の腕を掴まれる。
激痛が走った。アシュタロテは絶叫した。
信じられない膂力だった。太母神はアシュタロテの肩の関節を破壊し、肉を引き裂き腱を引き抜いて、その左腕をむしり取った。
蝶の羽をむしる子供の無邪気さで太母神はくすくすと笑い、引きちぎったその腕を、食べた。
おびただしい量の血が噴き出し、どぼどぼと肉の床の上に流れ落ちる。経験したことのない痛みが、アシュタロテの視界を真っ白に染め上げる。
太母神はアシュタロテの左腕をこりこりとかじっている。その顎が動くたび、奇妙な滑稽さで口からはみ出した左手が揺れ動く。太母神はアシュタロテの右腕に手を伸ばす。
アシュタロテの視界の隅に、四肢のない女の死体が映る。アシュタロテは目をつぶり、そして、跳んだ。
肉の被膜に裂け目があれば、電光化は可能なのだ。
太母神の背後上空に転移し、銅の槍の最後の一本を抜き、渾身の雷気を流し込んで剣に形を変える。着地と同時にそれを振りぬき、蛇の群れめいた管の束を両断した。
太母神は振り返る。ぽかんとした顔をしている。
アシュタロテはその首を刎ねた。
再び空中に転移し、血を噴出す傷口に直上から銅剣を突きさす。さきほど体内に飲み込まれた槍に、剣先が触れる。融合する。雷精に呼びかける。
(これが最後だ。力を貸してくれ)
槍は牙めいた突起をびっしりと外周に生やした円盤に変形し、太母神の体内で回転する。
凄まじい勢いで内臓を引き裂くそれを、アシュタロテは女神の身体の奥の奥まで押し込む。
アシュタロテの全身は返り血で染まった。熱湯のような熱さだった。
やがて女神の上体は破裂した。
飛び散った血と肉は、床に落ちる前に塩の飛沫に変わっていた。
部屋を包む肉壁もいつの間にか消えて、ありふれた石組みの壁と天井に変わっていた。
ちょうど横隔膜から下が残った女神の身体は、膝から崩れ、倒れた。力を出し切ったアシュタロテは、その勢いで床に投げ出された。
ねばつく血で覆われた床から、彼女は立ち上がることができなかった。つかのま忘れていた左肩の激痛が、よみがえっていた。
だから、ただ見ていた。
太母神の半身が塩にかわっていくのを。塩の塊が、さらさらと崩れ落ちていくのを。
そして、思いがけないことが起こった。
塩と化した下腹部のあたりから小さな人の形をしたものが現れ、立ち上がったのだ。
(殺しきれなかった!)
絶望に目の前が暗くなった。
人の形をしたものは、美しい少女の姿をしていた。頭を振り、髪についた塩粒を振り払うと、それは言った。
「久しぶりね、アリアンロッド」
犬の散歩の途中で友達と出会ったような、気楽な口調だった。
アシュタロテは言葉を返せる状態ではなかった。目を閉じ、苦笑いを浮かべ、そして気を失った。
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