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「ずっと前から目は覚めていました。ただ、私は雨季の終わりとともに死の国に帰らなければならないのです。兄を、何度も悲しませたくはなかった。別離の悲しみは一度で十分です」
「そうですか」
アシュタロテは束の間、嫉妬に似た感情を抱いた。お互いを思い合い、心の通じ合った兄と妹が、眩しく見えたのだ。
「私には見えませんが、海と陸の境に、光の壁のようなものがあるはずです。私をそこまで運んでくださいませんか」
「あなたに、この状況をなんとかできると?」
「わかりません。ただ、あの中にアリアンロッドがいるのです。私が知っているのは、そのことだけです」
おぞましい光景だった。
それは海水と言うよりも混沌の生き物のもつれあいだった。混沌の生き物たちは絶え間なく変容しながら互いを食らいあい分裂を重ね、さらに食らいあいながら、次第にかさを増していくのだった。その地獄のような領域に、ブランウェンはためらいも見せずに歩み寄っていった。海の壁に、無造作に腕を差し入れ、ぬいた。その手には、蒼白い獣の前足が握られていた。四肢を持った獣は、混沌の生き物としては極めて珍しい。狼に似ていたが、その皮膚は体毛がなく、ぬめぬめとした薄青く光るもので覆われている。アシュタロテには不気味にしか見えないその獣をブランウェンは抱きしめ、
「いつまでも愛しているわ。どうか忘れずにいて」
耳元でそうささやいた。
ぐったりとして動かないその獣を丁寧に地面に横たえると、ブランウェンは振り返りもせずに立ち去って行った。
やがて獣はのろのろと起き上がった。
四つ足で立ち上がると、海の壁が鼻先に触れた。
そこから波紋が広がり、次いで、青い光が火花のように壁の中のあちこちで行き交った。
海の壁は静かに崩れ始めた。怖れていたような陸への殺到ではなく、積み上げたレンガを一つずつ取り除くような、おだやかな、ゆっくりとした変化だった。むき出しになっていた海底が少しずつ水に覆われていった。汀は本来のありかに戻ったが、アシュタロテはくるぶしを濡らした程度だった。水に溶けたのか、沖合に戻って行ったのか、混沌の生き物は姿を消していた。
そして気が付くと青白い獣は消え、アリアンロッドがそこに立っていた。
お互い、言葉はなかった。不器用な沈黙がしばらく続いたあとで、ふたりはぎこちなく腕を差し出し、互いの拳をぶつけ合った。それぞれに指につけた家門の指輪が触れ合ったとき、アシュタロテの中にアリアンロッドの、アリアンロッドの中にアシュタロテの記憶が流れ込んだ。
アシュタロテは未来を視、アリアンロッドは過去を視た。そして二人は、それぞれの為すべきことを知った。
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