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 雷鳴が轟き、電光が空を走った。誰によるものでもない、自然の働きだった。しかしそれが合図だったかのように、海の壁は動き出した。混沌の生き物たち、すなわちまだ産まれぬ者たちは、再生の時に向けて一斉に走り出した。  それは現し世の者の目には巨大な波涛と映った。  それはあらゆるものを巻き込み引きずり込みかみ砕いてゆく、抗うことなど叶わない途方もない運命の車輪そのものであった。  大地はみるみるうちに水没していった。  避難民の何割かが、寄せ来る水に引き込まれて消えた。  波涛は岩を押し流し、黄金の瓦礫を押し流し、塩の柱を押し流し、人々の亡骸を押し流し、そして引いていった。  あとには荒廃が残った。そして、それだけではなかった。  再び現れた地表は、混沌の生き物たちにびっしりと埋め尽くされていたのである。  兵士たちも、難民たちも、絶望の声さえあげることもできず、ただその光景を見つめていた。  人々はただ雨に打たれていた。  雨は混沌の生き物たちの上にも降り注ぎ、その活動の場をわずかずつ広めていく。そして雨季はまだ始まったばかりなのだ。 タルドゥは呆然自失している兵士たちを眺め、長く深く息を吸った。叫んだ。 「貴様ら、何をぼんやりしておるか! その手は何のためについておる!塹壕を掘れ! 避難民たちを雨ざらしにしておくつもりか! ここが俺たちの国だ! 国民を守るのが俺たちだ!  俺たちの仕事は終わっておらん! まだ何一つ終わっておらん! さあ、始めろ! 全員でかかれ! 」 「わ、我々もですか?」  参謀の一人が小声で尋ねる。 「当然だ! しかし……」  タルドゥも声を潜めた。 「エトルリア兵が隊列の中に紛れ込んでいる。目を離すな。おとなしくしていればいい。だが、略奪暴行を働くようなら、決して許すな」 「承知しました!」  参謀は敬礼した。  目的を与えられて、兵士たちは活気を取り戻したように見えた。土を掘る者。運び出す者。敵前で塩の地層を掘るよりはたやすい仕事だ。 疲れ果てているはずの将兵たちは、声をかけあってきびきびと動いている。  タルドゥはその光景を見て、逆に気が緩んだ。彼自身疲れ切っている。空腹でもある。足元がふらついた。兵士の誰かが投げ出した槍をとって、杖代わりに身体を支えた。そしてはっきりと気づいた。  地面が揺れている。  かすかな振動が、だんだんと大きくなる。突き上げるような縦揺れになる。 「全員、作業止め! 坑道から出ろ!」  声をかぎりに叫んだ。  視界の端で、何かが光った。振り返った。  エトルリアの方向。  天に向かって突き上げられた槍のように、赤い火柱が立ち、どこまでも伸びていく。  きのこ雲めいて広がる噴煙。飛び散る火山弾。  地面の揺れは、誰も立っていられないほどになっている。  雨水を含んだ地層が、あちこちで土砂崩れを起こす。川沿いに土石流が走る。 「指令! 退避命令を!」  混乱した参謀が叫ぶ。  だが、どこへ退避できるというのか。  タルドゥはなすすべなく地面を掴み、火柱の行方を見上げた。  そして見た。  空の暗黒に亀裂が走るのを。亀裂から眩い光が漏れるのを。ひときわ激しい衝撃とともに、暗黒が一瞬のうちに破砕される光景を。  人々が空と信じていたもの、成層圏にまで達する巨大なドームは砕け散りながら燃え落ち、あとも残さずに消えた。流れ込む暖気によって雨雲もまた消えていった。  人々は知った。  眩く光る青い広がりが世界を取り囲んでいるのを。  直視できないほどに明るく力強く輝くものが、青のただなかに浮かんでいるのを。  そしてのちに太陽と呼ばれるその輝くものの下で、混沌の生き物たちは変容していった。  緑なす草原に、鬱蒼とした森林に、鳥に、蝶に、数知れぬ獣たちに、混沌の生き物は姿を変えていったのである。  海には緑に覆われた島々が数知れず浮かんでいた。  彼らがただ一つの大地と信じていたものは、群島のなかの小さなひとかけらに過ぎなかった。  暁の王を称える喜びの声が、賛歌が、山岳のあちこちでこだましていた。背後では兵士たちが、肩をたたき合い、抱き合い、涙を流し、笑いあっていた。  そして参謀の一人が人混みをかきわけ、タルドゥに近づき、耳打ちした。 「薄明の女神さまが身罷られました」 「そうか」 「ご遺体はどうなった」 「ここに」  参謀は肩にかけた革袋から、いくつにも砕けた塩のかたまりを取り出して見せた。 「……そうか、そういうものだったな」  タルドゥは黙とうした。ありがとうございました、と心の中で繰り返しながら。 「このこと、できるだけ伏せておいてくれ」 「承知しています」  参謀は去った。  タルドゥはもう一度、生まれ変わった世界を眺めた。 「どこにいる? アリアンロッド」  弟がもう帰ってこないことは、どこかで理解していた。  それでも待っていたいと、タルドゥは感じていた。  火の柱は消え、地震も地響きも、気づけば終わっていた。  ただ噴煙だけが、天に突きあげられた拳のような姿で、そこに残されていた。  
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