第1話 一目惚れ

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第1話 一目惚れ

 『あなたがいなくなること、あなたが私を忘れてしまうこと。浜辺に押し寄せるさざ波のように、絶え間ない時の流れが、ふたりの思い出を洗い流してしまうことが怖い』  儚く、物悲しい囁きは、泡になって消える人魚の(なみだ)のようだった。  穢れなき死者の晴れ着を纏い、白百合を敷き詰めた棺の中で目を覚ます第一幕の冒頭。  主人公である幽霊になった青年の憂いげな眼差しから、心を鷲掴みにして離さないような激しい感覚を受けて戸惑った。  私を取り巻く時間が、一足飛びに過ぎ去ってゆく。  それなのに、私自身はいつまでも"今"に留まっているかのような、不思議な感覚に包み込まれていた。  頬がじわりと熱くなり、鼓動が早鐘を打つ。  左耳に掛けていたはちみつ色の髪がさらりと頬に流れ落ちても、私は青年から視線を逸らせないまま、それとなく横髪を耳に掛け直した。  (これが、"一目惚れ"というものなのね……)  恋をしたのは初めてではないけれど、まるで長い坂を転げ落ちるように恋をしたのはこれが初めてだ。  まだ淡く荒削りの感情は、憧れや尊敬に良く似ている。  いつもより少しだけ距離感のある恋の始まりに思い悩みながら、騒ぎだした心を宥めるように深呼吸をした。  (こんな様子では、終幕までに心臓が無事でいられるか分からないわ)  段々と穏やかになっていく鼓動に安堵しながら、何気ない風を装って紅い頬をメモ帳で隠した。  ピチャンとひとしずくが跳ねる音を合図に、舞台上と観客席を分かつ隔たりが破られた。  その途端、穏やかな水面下のような世界観がひたひたとへと流れ込み、無抵抗な観客達をあっという間も無く呑み込んでしまう。  しかし、その水の中には不思議と苦しみはなく、温かくも冷たくも無い空間を、ぼんやりと漂うだけの感覚がやけに身に馴染んだ。  彼は幕が上がってからものの数分のうちに、たったひとつの台詞、たったひとつの目配せだけで舞台の全てを支配して見せたのだ。  絶対的な力を以って、敵陣を蹂躙(じゅうりん)するかのように。  それでいて、眩い光を掲げ、神の国へ導く優しい天使様のように。  『どうしてこんなにも、あなたを愛することが怖いのでしょう。どうしてこんなにも、あなたを愛せなくなることが怖いのでしょう。あなたに触れられないというそれだけで、わたしの心はこんなにも弱くなってしまう……』  気恥ずかしくなるくらいにロマンチックな愛の言葉は、あくまでも台本に記された作り物(セリフ)だと分かっている。  けれども、まるで私自身に語りかけられたかのような錯覚に、大袈裟なほど心が打ち震えた。  実際にこんな芝居がかった愛を囁かれたら、可笑しくて堪らず吹き出してしまうかもしれない。  もしかしたら、胸やけがする程の甘ったるい言葉に、かえってげんなりとしてしまうものなのかもしれない。  だけれども、目の前の景色は星くずを散りばめたように赤や黄色に煌めき、胸の奥に閉じこもっていた魂が、蕾を緩め解けていくような感覚に息を呑んだ。  窮屈な棺から解き放たれた青年は、蓋に刻まれた十字架にキスをして跪く。  両手を胸の前で結び合わせ、神の導きを乞う姿から、真面目で敬虔な青年の人物像が伺えるようだった。
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