【1章】訳アリ少女とエセ関西人

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 図書館の夏休み利用は明日からです。  廊下の掲示板に貼られたポスターを思い出しながら、生徒玄関で靴を履き替える。履き慣れたスニーカーに足を収めて歩き出せば、下校時刻が重なった生徒と行き先が重なり、逆らうことなく校門へと向かった。 「帰ったらどの課題しようかな」  誰に言うわけでもなく、独り呟く。  頭の中には今日までに出された各教科の課題範囲とプリントが思い浮かび、極力早めに片づけてしまいたいという気持ちに駆られてしまう。  課題を早めに片づけて、空いた時間は受験勉強に割いて、けれどそんな生活の中でも家のことはしっかりやって。  考え始めるとやることが多い夏休みに、今日までと違った意味で忙しくなりそうな気配を感じる。  1度深呼吸をして気合を入れ直し、頑張ろうと決心した。  その直後だった。 「離してよっ!」  聞き覚えのある叫び声が耳に入り、思わず足を止める。気づけば目の前の校門には人だかりが出来ていて、中心にはクラスメイトである宇堂さんの姿が見えた。  けれど目に入った彼女の表情は強張り、いつものような穏やかな笑顔は見えない。怒りと怯え。二つの感情を滲ませる宇堂さんは後退りながら声を上げ、近づく長身の男との距離を保った。 「アンタとはもう別れたんだから関わらないで!」 「別れたって、お前が一方的に言ってきたんだろ! 俺の何が不満なんだよ! ずっと側にいてやっただろ⁉」 「だから、そういところが嫌なの‼ なんでもかんでも縛って、意味分かんない理屈押し付けて、これ以上付きまとうなら警察に相談するから!」  痴話喧嘩には見えない状況と、宇堂さんの怯えた様子。何より、素性の分からない男が着ているスーツのズボンポケットが不自然に膨らんでいる事実。  ……すごく、嫌な予感がする。 「……なんだよ、それ……」  ポツリと零れた男の声。  俯いた彼がズボンのポケットに手を入れたのと、私が飛び出したのはほぼ同時だった。 「やめてください」  男がポケットに忍ばせている“何か”を取り出すよりも先に、二人の間に入って宇堂さんを自分の背中に隠す。 「矢代、さん……?」  困惑する宇堂さんを前に出さないよう片手で制ししながら、震える足を地面に縫い付けて見ず知らずの男を見上げる。  自分でもどうしてこんなことをしているのか分からない。咄嗟に身体が動いた、としか言いようがない現状。それでも私は、こうしなければいけないという直感に動かされ、こみ上げる恐怖を抑え込んで口を開く。 「これ以上騒ぎを大きくするつもりなら先生を呼びますし、必要なら警察だって呼びます」 「なっ……!」 「それは困りますよね? 嫌なら早く、この場を離れてください」  目の前の男と宇堂さんの関係は分からないし、私が知る必要のないことなのだと思う。  だけど今怯える宇堂さんを見捨てるわけにはいかないし、今にも危険な行動を起こそうとする男を放っておくことは出来ない。  深追いはしない。だからこのまま立ち去ってほしい。  そう心の中で願っても、男は身体を小刻みに振るわせて、止める間もなく怒りに身を任せて動き出した。 「ふざけんなよっ! ガキが優等生ぶって、邪魔なんだよ‼」  男のポケットから取り出されたナイフが、身構える間もなく頭上から振り下ろされる。  ダメだ、と頭では迫りくる危険を理解しているのに、咄嗟のことに身体は動いてくれない。  ――逃げなきゃ、庇わなきゃ、どうにかしなくちゃ。  色んなことを考えて、それでも身体は反応してくれなくて。振り下ろされる鋭い刃先をただただ見つめるしかできなかった。 「はーい。そこまで」  ――窮地に聞こえたのは、男の人の声。  それは緊迫したこの場に不釣り合いなほど柔らかな声色、口調は砕け、冗談交じりにも聞こえる声が私の耳にも届くと、ついさっきまで強張っていた体の力が容易く抜けてしまう。  優しくて、穏やかで、だけど心強くて。何度も聞いた声の方に目を向けると、そこにはナイフを持った男の腕を抑え込む彼の姿が見えた。 「雪也(ゆきや)、さん」  夏の風が、彼の茶色い髪を靡かせる。  自分と背格好の変わらない男を片手でねじ伏せながら、雪也さんは涼しい顔で相手の姿勢を崩すとそのまま地面に倒し、片膝で押し付けながら腕を捻る。  ナイフが男の手から落ちるのと、私と雪也さんの目が合ったのは同じタイミングだった。 「こんにちは、あやめちゃん。怪我ないか?」 「は、はい。おかげさまで」 「さよか。そんなら、でしゃばった甲斐があるっちゅーもんや」  雪也さんは男を押さえつけながらも、何事もなかったように話しかけてくれる。それは不自然な光景ではあるけれど、不思議と心が落ち着く行動だった。  ちぐはぐな状況だというのは分かっているけど、それでも目の前でいつものように微笑みかけてくれる雪也さんの表情が、私に安心感を与えてくれる。  彼は1度視線を外すと、自分がねじ伏せている相手を見下ろし「やれやれ」とわざとらしい溜息をついて見せた。 「お兄さん、女子高生相手にナイフはアカンやろ。好き好き言うて、学校に押し掛けるんもどうかと思うで」 「いっ、てぇ‼ 誰なんだよ! お前!」  地面に押さえつけられてもなお、男は力任せに抵抗する。けれど相手を抑えている雪也さんは抵抗を意に介した素振りも見せず、こう言った。 「誰でもあらへん。ただの通りすがりのお兄さん、それだけや」  誰でもない、通りすがりのお兄さん。  ナイフを手にした不審者を何食わぬ顔でねじ伏せておきながら、雪也さんははっきりとした口調で自分が何者かを告げる。  そんなわけない、普通の人はそんなことできない。通りすがりのお兄さんを語るには難しい現状だけど、目の前の雪也さんは“通りすがりのお兄さん”を主張して笑う。  ヒーローのようにカッコよく登場して、華麗に悪を成敗してしまう。  中々絵になる登場シーンだと気付いたのか、彼はパァっと顔を明るくさせて次第には「なんか、めっちゃイケてへん⁉」と胸を張る始末。  子供のように無垢な笑顔を見せられては、張り詰めていた緊張も何もかも抜けてしまう。 「そうですね。かっこいいですよ、雪也さん」  だから私も笑って賛同する。  窮地に駆けつけてくれた、かっこいい通りすがりのお兄さん。アパートの隣の部屋に1人で暮らす、頼れる隣人のお兄さん。  ――近衛(このえ)雪也(ゆきや)さん。  彼の活躍のおかげで騒動に終止符が打たれたものの、私の下校時間はその後駆けつけた先生方による事情聴取によって大幅に遅れてしまった。 → .
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