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化け物
おかあさんという生き物が、わたしはよくわからない。
いつも何かを考えているような顔をしながら、朝食のパンにジャムを塗っている。おかあさんは、時々何かをおもいだしたように、MacBookに向かって、ゆびさきをしゅわしゅわさせながら文字を打っている。でも何を書いたの、とわたしが尋ねても、たいしたことじゃないよと少し下を向いて笑うのだった。料理をつくるときには、<初音ミク>という音楽ソフトの曲をいつもかけていた。それっておかあさんの世代で流行ったやつでしょ。と茶化したように言ったら、うん、ぼくは人間の声が聞きたくない時があるから。と返してまた人参を切る音がきこえた。わたしはちょっと怖くなった。わたしの声も、聞きたくない時、あるの。その質問はついにできなかった。
おかあさんは自分のことをぼくと呼んでいた。大学の卒業式はメンズスーツで出たんだ、と嬉しそうに言っていた。わたしはLGBTへの理解はもちろんあるほうだと思うけど、いざ自分の母親がそれっぽいなという話になれば、とたんによくわからなくなる。おかあさんがもし自分を女の子だと思えないのなら、どうしてわたしを産んだんだろう。身篭っている間、どんな気持ちだったんだろう。わたしがはいっているお腹、恥ずかしかったのかな。わたしのこと――ほんとに欲しかったのかな。いて、いいのかな。そんな気持ちになってしまう。
おかあさんはMacBookに向かう間、ずっと煙草を吸っていた。むかし、ずっとむかしにふざけて吸うふりをしたら、本気で怒られた。やめなさい、こんなもの吸わない方がいい。そう言ってから、小さな声でこんなんでごめんね。と付け加えた。こんなん、っていうのはこんなおかあさんでって意味なんだろう。なんでそんなこと言うんだろう。おかあさんは大人なんだから、そんなに駄目なことしてるわけじゃないのに。むしろ、ごめんなさいを言うのはふざけたわたしの方なのに。なんで、なんでそんな自信ないのよ。あのことを思い出すとなんだかモヤモヤする。
わたしとおかあさんは、あまり家でも顔を合わせなかった。わたしはずっと、自分の部屋で音楽を聴いていた。用事があれば、LINEでやりとりする。正直、まるで他人だった。もちろんあのひとの手で抱きかかえられてディズニーランドに行った写真なんかは残ってるけど、幼い時すぎて全然覚えてない。音楽はロックやヒップホップをよく聴いている。音楽が、代わりにさけんでくれるから。
なんか、ずっと叫びたいんだ。わたし。だって息が詰まりそうなんだもん。友達もろくにいないし、つくりかたもわからないし、学校もろくに行ってない。それなのに、おかあさんは取り憑かれたように何かを作っている。わたしを、みてない。わたしをちゃんとみてない。みてくれるためなら、と非行を考えたときすらある。だってよくあるパターンじゃない、不登校でドロップアウトして、親が放任主義で、非行に走るって。すごく教科書的な非行じゃない?そう思ったんだけど、もし万引きするなら何にしようか考えているうちに普通にお会計して出てきちゃったんだ。なんか、欲しいものがなくて。財布だって、お菓子だって、きらきらしたダイアモンドさえ、何一つほしいものなんかなかった。ほしいもの、ほしいものは何なんだろう。ふわふわの雲布団がほしいな。昔の四コマ漫画に出てきたヤツ。あれ、ほしい。それくらいかなあ。あとはでっかいぬいぐるみ。でもそんなもの万引きにならないじゃない?雲布団に至っては存在しないし。だからやめたの。たぶんわたし、愛情がほしい。愛されたいの、もう赤ちゃんじゃないのに、赤ちゃんみたいにぎゅってされたい。安全基地がほしい。あんな、ふわっとしたよくわからない生き物じゃなくて、ふかふかして実在を確かめられるおかあさんがほしい。
憎いのよ、きっと。なにもかもが。うまくあいされない。うまく生きられない。うまく息ができない。それなのに朝日は毎日律儀にのぼって、季節は移ろっていく。わたしを取り残して、世界はまわっていく。それが憎い。いっそマンションからとんでしまいたいほどには、なんにも上手くいかない。わたしがいたこと、その証明。それを残すためにならなんだってする。しんだってかまわない。そのとききっとおかあさんは気付くのよ。わたしが大切だったって。でももう遅いの。だからおかあさんはずっとわたしのことを思いながら、創作を――いや、やっぱなし。あのひと、たぶんわたしのことさえネタにしそう。そんなのたまったもんじゃないわ。
ふと階段をおりたら、部屋を真っ暗にしておかあさんはモニターを観ていた。映画みたい。なんとなく興味をそそられて、静かにちょっと後ろに座った。全てにぜつぼうした人間が、怪物になって、街をこわしまくって、たくさんのいのちを残酷に奪っていく。いわゆるホラー、パニック映画だな。ちょっとチープでありがちだけど。
と、思ったら、おかあさんの泣き声が聞こえた。
え?うそでしょ?こういうの怖いタイプ?めちゃくちゃ意外なんだけど。
「ねぇ、泣いてない?怖いの?」
軽くからかう口調でわたしは言った。
それに対して、しぼりだすようにおかあさんは、
「怖くない。でも、自分をみてる気持ちになる。だから…かなしい」
と言った。
はじめて、深く理解した。たしかに、ホラー映画は、わたしも悪霊や殺人鬼に感情移入するタイプだった。だって彼らのほうがよっぽど人間をやってるんだもん。妬み嫉み、生命の爆発、残穢。そして暴発する怒り。さけび。誰かの悪意で歪に歪になってしまった、かつては純粋だったこころとたましい。壊すことしかわからなくなった、かなしい存在。ここにいるよって、わたし生きてたんだよって――
気づけばわたしも泣いていた。
おかあさんは、わたしに怖いのかとは聞かなかった。ただ、黙ってだきしめてきた。ぎゅうって。わたしの中で産まれそうな悪意の花を、摘み取るように。くろい渦ごと、だきしめてくれた。
ふたりでわんわん泣いた。わたし、わたし。
「わたし、ずっとおかあさんがわからなくて」
「うん、…うん」
「だから、だから、わたしが居ていいかも。わからなくて」
「いていいよ。当たり前だよ。ごめんね…ごめんね。ちゃんとお母さんをできなくて」
「謝らないでよ!なんでおかあさんは…っ、かなしいよ!かなしくなるよ!いま、だきしめてる、わたしを、だきしめてるじゃん、間違いなく」
「うんうん、うん」
「わたし、化け物かも、しれないけど。おかあさんも、たぶん、似てるんだ。わたしと」
「そうかもしれない…でもね、まなちゃんは化け物になんかならない。お母さんが、そうさせない」
そしてぎゅうとまただきしめた。わたしは、産まれてはじめてってくらいたくさん泣いた。愛のかたちはやさしくてあったかかった。やわらかかった。いや、産まれてはじめてたくさん泣いたのは、産まれた瞬間か。そのとき、おかあさんは、きっと同じくらい泣いてくれたんだろう。聞かないけど、聞かなくてもわかる。もう大丈夫。
雲布団だって、わたしはもう要らないや。
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