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平日だが、早起きをする必要もなければレッスンに行く必要もない。
その気の緩みからか、律仁が眠りから覚めて起きた時間は午前9時だった。
チェックアウト一時間前で慌ててシャワーを浴びて身支度をする。
人は切羽が詰まると自然に魅力を感じてしまうのだろうか。
律仁が旅先に選んだ場所も滝のある渓谷だった。甲府駅からバスも出ているし、左程遠くはない。平日とは言え、観光名所でもあるから人は多いかもしれないけど……。
現地へ到着すると渓谷までのガイドに沿って、木々や橋のある山道を渡り歩く。駅でボストンバックを置いて行くべきだったと後悔したが、幾分か温度の低い森林は歩いていて心地よかった。
渓谷まで辿り着くと、テレビ映像で見るよりも数倍美しい景観がそこにあった。滝の音、遠くの方から聞こえてくる種類の分からない鳥の声。
澱みのない空気鼻から思いっきり吸って吐くことで、心の錆が浄化されていく感覚を覚えた。
周りの観光客は滝つぼに向かってスマホを構えて写真を撮っていた。
律仁もそれを見て、やはりスマホくらいは持ってきても良かったかもと後悔したが、これは写真で見るよりも目で見て耳で聞いて、肌で触れて感じるものだと思い直した。
自分はとても窮屈な、狭い視野で生きていたのかもしれない。
下山した頃にはお腹が鳴り、渓谷から少し下ったところにあった御飯屋さんで
食事をすることにした。
動いた後でお腹いいっぱい、名物のほうとうをふーふと冷ましながら食す。
ただそれだけのことなのに、幸せに感じた。
頬を落とし、終始笑顔で目を細めながら麺を啜っているとどこぞの知らない、作業着を着たおじちゃん達に「兄ちゃん、いい顔して食ってるねぇ」と褒められて嬉しくなった。
表舞台に出ていて失いかけていた自分を取り戻せたようなそんな気がした。
散々観光を楽しんだ後、夕刻を過ぎた頃に駅へと戻り散策をする。
ふと駅前の商店街に古びた中古CDショップを見つけて、中に入ってみる。
店内は然程広くなく、入り口には中年くらいの細身の男店主がレジに立って作業をしてる。
演歌やロック、洋楽、邦楽、アイドルなど聞きふるされて売りに出された音源たち。今や音楽はスマホひとつで手に入るコンテンツだが、律仁は音源という形で残るCDの方が断然好きだった。
好きだった洋楽のCDを見つけ、ジャケットを手にとると自然とワクワクする心。やっぱり自分は音楽が好きなんだと思わせる。
怖いもの見たさでアイドルジャンルの棚にある自分のCDを探すと、やはり数本売られていた。それ程飽きられた証拠なのだろう。
悲しいけど、吉澤の言った通り自分は一人になってからファンのことを顧みたことがなかった。振り出しに戻ったモノを取り返すように、自分のために、唯惚れた女性と一緒にいたいがために活動してきた。だからファンなんて当たり前のようについてくるものだと思っていた部分もあった。
「やあ、ショウタくん。学校終わりかい?」
「は、はい……」
ふと店の入り口の方で声がして、声の方を見遣ると半袖のワイシャツに黒いスラックス。黒髪で童顔の見た目が中学生くらいの男の子が赤面させながら店主のオヤジと話していた。
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