二 事故

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二 事故

 東西に続く横大工町の通りを東の端で北へ折れると神田多町の通り。南に折れると西は竪大工町、東は鍛冶町である。  秋晴れのその日。  朝から、横大工町の通りも竪大工町の通りも多町の通りも、運びだされる仕上がったばかりの大八車と、鍛冶町から荷を運ぶ大八車と運脚と馬でごった返していた。  昼前。  多町の通りで行き交う大八車の車輪と車輪がぶつかり、互いに道を譲らず言い争いになって車引き同士の乱闘になった。  通りの歩行は武家の習わしに従い左側通行である。荷を運ぶ大八車も運脚も馬もそのようにしているが、時として習わしを無視する者がいる。  さらに、通りは歩行者のために造られている。車馬のためには造られていない。狭い通りを車馬が通れば、事故発生は必定。通りを行き交う歩行者が車引きの乱闘に巻きこまれなかったのは幸いだった。 「おまえさんっ。車引きたちが喧嘩だよっ」  お綾が長屋に駆けこんだ。 「正太っ。行くぜっ」  鉋を置き、藤兵衛は正太と共に長屋を跳びだした。  多町の通りの乱闘は通りに来る他の車引きたちを巻きこみ、大八車に積んだ鍛冶町の鋤や鍬や鉄槌を使った暴動に発展した。すぐさま町方と岡っ引きが駆けつけ、暴動を起こした者たちを捕縛し、奉行所へ引っ立てた。 「棟梁、ご苦労だったな」  捕縛に協力した藤兵衛と正太に、与力の藤堂八郎が礼を言った。特使探索方の藤兵衛と正太は、藤堂八郎と顔見知りである。 「藤堂様。車引きだけでなく、雇主も処罰されるのですか」  藤兵衛は尋ねた。 「車引きは所払い、雇い主は罰金を免れまい。御触書にそう有る故、致し方あるまい。車引き同士の騒動だけで済み、幸いだ」  藤堂八郎によれば、大八車の引手の雇主は日本橋大伝馬町の廻船問屋桝屋清右衛門と田所町の廻船問屋井筒屋与平である。  妙だ。大八車を注文したのは、田所町の廻船問屋亀甲屋藤五郎だ。表沙汰になっていないが、藤五郎は日本橋界隈の香具師の元締めだ。  今朝も五台の大八車を亀甲屋の引手が取りにきて、その足で鍛冶町へ荷を取りに向かった。多町の通りは鍛冶町から荷を運ぶ大八車と横大工町や竪大工町からの大八車でごったがえした。それら大八車の大半が亀甲屋の持ち物だ・・・。  なぜ車引きたちは、大八車の持主が亀甲屋だと言わぬのか。大八車の雇主のみならず、持主が処罰されるからか。亀甲屋に口止めされたか・・・。 「正太。帰るぜ」  藤兵衛は蟠りを抱いたまま正太を呼んだ。  樫大工町と鍛冶町の通りを西へ折れ、横大工町の通りへ歩くと正太が声を潜めた。 「親方。妙だと思いやせんか。車の持主は桝屋や井筒屋じゃありませんぜ」  大八車の注文主は亀甲屋だ。桝屋と井筒屋を聞きこんでも、町方にしょっぴかれ主は居ない。亀甲屋へ聞きこんでも、藤五郎は事実話さぬ・・・。藤兵衛はそう思った。 「まあ、長屋へ戻って昼飯にするってもんさ」  長屋へ帰ると、二人が無事と知ってお綾は安堵し、いつもの気っ風で、昼飯だから手と顔を洗ってきな、と二人を井戸端へ追いやった。  手と顔を洗い、唐十郎の長屋へ入った藤兵衛と正太は驚いた。 「鶏にしましたよっ」  あかねとお綾は鶏鍋を用意していた。 「唐十郎様から皆様へ、日頃の大工仕事をねぎらい、陣中見舞いとの事です」  驚く二人に、あかねは綾と顔を見合わせ、くすくす笑っている。  それを合図に、お綾は鶏肉と汁をお碗によそって、二人の前に置いた。
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