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 人間は愚かな生き物だ、と思う。 「願いごと?」 『そう、願いごと。アナタが望む何かを3つまで叶えてあげる』  眼前に立つ、胡乱な目つきでこちらを見つめる人間がひとり。  大雨の中、傘をささず濡れっぱなしになっているその姿は、ひどく無力でとてもみすぼらしい。  年齢はおそらく20にも満たないだろう。 「何者だ?」そんな問いが透けてくるような表情をしている。  淀んだ雰囲気がその全身を包んでおり、私は思わずニヤリと笑ってしまった。 「フン、馬鹿馬鹿しい。まるで悪魔との契約みたいじゃないか」  少しばかり逡巡する様子を見せたあと、吐き捨てた言葉を追うように、男が視線を足もとに戻した。  その先には、水かさを一気に増して轟轟とうねりを打つ川が覗える。  飛び込めば人間なんぞ、きっとひとたまりもない。 『あら? 別に馬鹿馬鹿しいことなんてないわ。だって私は本物の悪魔だし、本当に悪魔の契約を交わそうとしているんだもの』 「何を言ってやがる」 『真実』 「……こっちはアンタみたいな気狂いに構ってる余裕なんてないんだ。向こうに行ってくれ」  ザーザー、轟轟、轟轟。  男の瞳孔が広がった。 『つれないわね。ものは試しで何か願ってみれば良いのに』  一歩近付く。  比較的大きな橋の上。  私たち以外は誰もいない、二人だけの世界。  深夜2時。強まるばかりの雨脚。 「ものは試し、か。ふん、今まで散々頑張ってきたさ。できることは全てやってきた。それでも駄目だったから、俺は今こうしてここにいるんだ」  視線を足もとに固定したまま、男が半ば投げやりな口調でそう答えた。 「どうせ俺は出来損ないなんだ」 『……』  ここは慎重に進めなければいけない。『そんなことはないと思うけど』私は努めて明るい声を出した。  踏込み方を誤れば最後。男は何ら躊躇することなく、川に救いを見出すことだろう。 「何も知らないくせに好き勝手言いやがって」 『フフフ、過去を悔やんでいたって仕方ないわ。大切なのは今であり未来でしょ?』  久しぶりの獲物だ。失敗は許されない。 「うるさい。アンタに何がわかるっていうんだ」  視線が絡み合う。 『……わかる。わかるわ。アナタが抱える苦しみや葛藤。その他諸々負の感情全て。私は余すことなく、その全てを理解できる』 「……」 『アナタは今まで頑張ってきた。だからアナタに優しい存在が一人ぐらいいたって良いじゃない』 「……」 『アナタは今から生まれ変わるの。私がアナタを生まれ変わらせる。大丈夫、未来は希望で満ちているわ』 「……希望?」  男の関心がこちらに移った。 ──いける。このまま耳触りの良い綺麗事を吐き続ける、物わかりの悪い女を演じ続けていればきっと。 『ええ、希望。この世界はアナタが思ってる以上に優しく、そして』 「……」 『甘い』 「チッ」と男が聞こえよがしに舌を打った。その顔には明らかにそれとわかる怒りが張り付いている。 ──もう一押し。 『フフフ、駄目でもともとでしょう? そんな怖い顔してないで何か願ってみたら良いじゃない。そうすれば私が真実を語っていると納得できるはずだわ』 「うるさいな。それじゃあ、この雨をすぐに晴らしてみろよ。それができないなら即刻ここから立ち去ってくれ!」  パチンッ。 ──契約締結。  やっぱり人間は愚かだ、そんな思いが頭を掠める。 「えっ……?」  私が指を鳴らしたのと、男が頓狂な声を上げたのはほぼ同時だった。 「そっ、そんな嘘だろ」 『残り2つ』  空には大きな満月がポッカリと浮かんでいた。
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