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十六 蛤の煮付け
二日後、長月(九月)八日。
晴れの夕七ツ(午後四時)過ぎ。
お藤は両国橋西詰めにいた。いつものように、紺地の小紋の小袖に雪駄履き、髪は玉結びで前髪は立てて膨らませた吹前髪だ。
あいかわらず、両国橋西詰めの通りは商家から荷を運びだす運脚や、大八車引と大八車や、馬子と馬でごった返していたが、夕七ツ(午後四時)を過ぎると作業を終えた人々が、棒手振りや煮売屋の屋台から、握り飯や惣菜を買い求めはじめた。
暮れ六ツ(午後六時)。
握り飯や惣菜を買い求める人の波が引き、屋台の客足が変わった。馴染みの客が屋台の握り飯や惣菜を買い求めるだけになった。
浅草御門の方角から女連れの武家が歩いてきた。武家は藤吉の屋台に来ると、飯台の前の樽に腰かけたお藤に、
「済みません。ここに座らせて下さい」
と挨拶し、連れの女をお藤の相向いの樽に座らせた。
「お藤さん。妻のあかねです。
あかね。こちらは、隅田村の仁藤屋の主のお藤さんだ。この煮売屋、藤吉さんの姉上だ」
唐十郎はあかねとお藤に、互いを紹介し、屋台の近くに寄った。
「握り飯と蛤の煮付けと鰯の生姜煮を五人前下さい。
藤吉さん。ここの蛤と鰯の生姜煮がうまいので、仕事の帰りに寄りました。
あそこにいるのは、私の妻のあかねです。
これで、安心して、美味い惣菜を食えるようになりました。
今後も、よろしくお願いします」
そう言って唐十郎は、握り飯と蛤の煮付けと鰯の生姜煮五人分の代金を払い、藤吉が用意した惣菜を風呂敷に包んだ。
唐十郎の言葉で、藤吉は先日の黒装束の浪人がこの武家だと確信した。
しかし、これまで会ったどのような手練れとも、この武家の雰囲気は違う。とても手練れとは思えない。手練れたちが持っている殺気めいたものが全く無い。いったい何者なのだろう・・・。
そう思って藤吉は姉を見た。
お藤はあかねと知古のように話しこんでいる。
藤吉は、あかねに、お藤と同じものを感じた。それは命を賭して修羅場を生き延びてきた者が持つ潔さだった。
藤吉は思わず尋ねていた。
「御武家様。よろしかったら、お名前をお教えください」
「おおっ、申し遅れました。
私は、浅草日野道場の師範代補佐を務める、日野唐十郎と申します。
住いは神田横大工町の長屋です」
唐十郎は正直にそう言った。両国橋西詰めは日野道場からの帰り道中だ。
藤吉は、唐十郎の受け答えに驚いた。この武家は何も警戒しないのだろうか・・・。
藤吉がそう思っていると、唐十郎は飛んできた蚊を指で無造作に摘まんでいる。
藤吉はぎょっとした。あの竹串で刺客三人を刺殺した腕使いそのままなのだ。
「師範代補佐ということは、日野先生は剣の達人ですか」
藤吉は畏まってそう尋ねた。
「道場には私の他に、師範代の大先生と二人の補佐がいます。
私が達人かどうか、妻に訊いてみましょうか」
唐十郎がそう言うと、あかねが笑った。
「旦那様は達人ですよ。私の心を射止めました」
両国橋西詰めに、和やかな夕刻が過ぎていた。
(了)
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