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2、初登校
「こっちだよ」と導く友彦の、背だけを見つめてついていくのは、何て甘い。
初登校。「道を覚えられるよう、ゆっくり行こう」と友彦は言ってくれた。もちろん英里に否はない。
小学校と中学校の先生をしている叔父叔母は、早い時間に出ていった。
家を何時に出るか、朝の食卓で相談した。友彦は、
「あと十五分くらい遅く出ても、余裕だけどね。一応、今日だけ」
と、トーストをかじりながらニコリと笑った。
「なぁに言ってんの! 英くん、このコの『余裕』を本気にしちゃダメだからね。ホントもう、のんびり屋っていうか、時間にルーズっていうか」
ジャケットに腕を通しながら、暢恵がテーブルの端を横切る。
「何だよぉ」
「はい、英くん。これ、この家の鍵ね」
暢恵は不服そうな友彦には目もくれず、歩きながらテーブルに小さな銀の鍵を置いた。
「あ、ありがとうございます」
友彦は母の背に苦情を言った。
「器がデカいって言えよ」
「はいはい、大器晩成、楽しみにしてるわよ~」
玄関から睦男の声がした。
「暢ちゃん、行くよー」
「はあい」
暢恵は振り返って「じゃね。ふたりとも、気をつけて」と言った。
「おー」
「……はい、行ってらっしゃい」
「英くん、担任の先生によろしくね。須藤先生よ。夕べ言った通りに伝えて」
「はい、ありがとうございます」
賑やかな家庭だ。英里の実家の蓮見家とは全然違う。蓮見の家では、朝は母とふたりだけだった。会話のない、冷え冷えとしたダイニングキッチンと味のしないみそ汁は、英里をいつも孤独にした。
友彦がテーブルの上の鍵を人さし指でそっと押して寄越した。
「うるさいだろ、ウチ」
「え……?」
英里は紅茶のカップを唇から離した。
友彦の指は、英里の手許で止まり、鍵を離してゆっくり引っ込んだ。英里の目は友彦の指に釘付けになる。
触れたくなる、甘噛みしたくなる、骨張った指。
「慣れるのタイヘンかもしれないけど、許してくれよ。昔っからこうなんだ」
友彦はひとり親戚の家に居候する英里を気づかってくれているのだ。
嬉しくなって、英里は目を伏せた。
「ううん。明るくって楽しいよ。僕のウチなんか会話もなくて、静かっていうより暗いんだよ。しーんとして」
友彦は牛乳のカップをぐいとあおり、言った。
「そうだな、英里ちゃんは物静かだもんな。話し方も落ち着いてるし」
「そ、そんな」
緊張、してるだけだ。昨日の夕方、部屋でしたことが、後ろめたい気がするだけだ。
「俺なんかさ、うるさいしガサツだし。こんなじゃ英里ちゃんに嫌われるかも」
「そんな……!」
英里は焦って言葉を探す。無自覚な、無邪気な普通の高校生である従兄の、他意のない軽い言葉を、適切にかわすひと言を。
英里は口を尖らせて見せた。
「友彦兄さん、昨日僕頼んだじゃない、『ちゃん』は止めてって」
「あ」
友彦はトーストを持ったまま動きを止めた。
「ごめん。つい」
英里は紅茶のカップを皿に載せ、たしなめるように言った。
「もうダメだよ」
「うん。分かった」
「ホント?」
「え」
英里は立ち上がった。
「じゃ、言ってみて」
重ねた食器を手に、英里は友彦の瞳をのぞき込んで命じた。
「『ちゃん』をつけないで、僕の名前を呼んでみて」
「えぇ……」
友彦は照れ笑いでごまかそうとする。英里は逃がさない。
「『えぇ』じゃなくて。言って」
友彦は英里を見上げたまま固まっていたが、観念して口を開いた。
「……英里」
(英里……)
甘い。
その響きに、英里はぽおっとなってしまう。
友彦が、この世で友彦だけが呼ぶ特別な呼び名だ。
そのまま、ふたりは見つめ合っていた。
キスしてしまいそうな数秒のあと、友彦が頬を赤くして目をそらした。
「もう行かないと。初日から遅刻はよくないよな」
ガタンと椅子の音を立て、友彦は立ち上がった。
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