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プロローグ、記憶の海
見渡すばかりの、黄色い海。
陽差しがはね返り、またはね返りして、見えるものすべての輪郭が淡く滲む。
そろそろと、優しい風が頬をなでる。
一面のたんぽぽ畑だ。
風が吹くたび、胸の高さで咲くタンポポが右へ左へと揺れるのがくすぐったい。黄色いタンポポに白い綿毛が入り交じり、ところどころにシロツメクサ、アカツメクサ。
春の陽。その熱量にたゆたう安心感。
誰かの話し声がする。歌うように、呟くように。うつむいて手を動かしながら、嬉しそうに何か話している。誰?
女でもない、男でもないような、それでいてとても身近に感じられる誰か。その雰囲気はたとえるならばおとぎ話の王子さまのようで。
誰なんだろう。
昼間の太陽、黄色いタンポポの明るさと、王子さまの体温が、春の黄色い海を温める。彼が何か言うたび、彼を祝福するように、風が吹き渡る。タンポポが一斉にそよぐ。綿毛が舞う。
時折彼は手を止める。編んでいた花冠ができあがる。彼は顔を上げ、できたばかりの花冠をそっと頭に載せてくれる。タンポポの黄色い花冠は、お姫さまの髪を飾るティアラだ。花冠はときに頚飾りになる。姫君を美しく彩るように、タンポポの黄色い冠を載せるたび、頚に花輪をかけるたびに、彼はそのできばえにうなずく。幸せそうに、満足そうに。穏やかな彼の声。春の黄色い海にたゆたう、彼の体温。そして傍らの誰かを花で埋めつくす。
ポカポカと幸せな温かみに、何もかもが溶けてしまいそうになる。
思い出せる限りで、もっとも古い記憶はこれだ。
いつどこで見た情景だったか。自分の体験か、眺めた景色か。現実かどうかも分からない。夢だったか、テレビで見た映画だったか。
そんなおぼろげな記憶が、たったひとつの支えだった。
ひとりのとき、悲しいときには、いつもその情景を胸に呼び起こした。
どんな刃がこの胸を刺しても、黄色い海の記憶は傷の痛みを軽くしてくれる。
春の風にそよぐタンポポは、王子の紡ぐ花冠は、凍る心臓を温めてくれる。
見渡すばかりの、黄色くて温かい海。
たったひとりで、生きてきた。
この記憶が支えだった。
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