1、北へ

1/5

64人が本棚に入れています
本棚に追加
/170ページ

1、北へ

 車窓を雨粒がまばらに叩く。  刈り取ったあとの田んぼと、何を植えているか知らない畑が止まることなく流れていく。雲間からのぞく山は天辺がすでに白い。  列車はだだっ広い自然の中を走り続けた。  英里(ひでさと)は民家のひとつもない景色を、気の遠くなる思いで見つめていた。  肌寒い景色よりもまだ冷え切った心を抱えて。  流刑の旅だった。  景色を眺めてため息をつくと、息の当たった窓が曇った。寒い。考えつく限りの厚着をしてきたつもりだが、少し足りなかったかもしれない。  季節がひとつ分ずれている。  ずれた季節のひとつ分、遠くへ流れてきてしまった。  ガラスが曇って、うっかり景色から意識が遠のくと、鬼のように喚き散らす母の姿が浮かぶ。英里はそのイメージを追い出そうと首を振る。少しも愛着を持てなかった母。  英里の言葉が遅いのに気付いた父が慌てて英里を幼稚園に入れ、ばあやとでもいうようなひとを雇い入れたりして、どうやらひと並みに成長したように見えたらしい。周囲は安心したようだが、英里は自分をどこか不良品のように感じていた。英里はひとを信じることがどういうことか分からない。ひとを愛することがない。  愛する、とはどういう状態なのだろう。  それを知りたくて、英里は虚しい冒険を繰り返した。  自分ではその目的すら気付かぬままに。  自分自身を繰り返しその疑問の中に投げ入れているうちに、ある日冒険を母に目撃されてしまった。それからはコメディ映画のような目まぐるしい場面転換が続き、あっという間に今、こうして遠い北の列車に揺られている。  英里は列車の振動に揺られながらむっつりと目を閉じた。  眼裏に、あのタンポポ畑が鮮やかに広がる。  寒々と深まった秋の風景を追い出して、春の温かさを思い起こす。黄色い海。誰かの笑顔の気配が、英里の胸をじんわりと温める。懐かしい、優しいひと。誰か分からないが、物心ついてから、いつもそのひとはタンポポの海で笑っている。  一体、どこで拾ってきたイメージだろう。  小さな頃にテレビで見たのか、映画か何かでも観たのだろうか。王子さまが自分なのか、それとも傍らの誰かの方なのか、それすらもよく分からない。だが、この黄色い海が温かくて、凍える英里の心を守った。怒声、殴られた頬の痛み、捻り上げられた腕。安全だった寝床を取り上げられ、またひとりに戻されて、季節ひとつ分北へ。  ――「また」?  これまでの十六年、ひとりでなかったことがあっただろうか。  寝床にあった体温は、英里の孤独を薄めたか。  英里は薄く瞼を開け、かすかにひとり首を振った。  誰も英里を抱きしめてはくれなかった。  誰もこの孤独を打ち払ってはくれなかった――。
/170ページ

最初のコメントを投稿しよう!

64人が本棚に入れています
本棚に追加