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進学を考えれば東京で進学校へ通っておくのが何より有利だ。それは誰にも分かる事実だった。が、それでもあえて「進学のため」と言っておけば、よほど北海道で進学すると決めているか、まあ普通は都会の進学校で疲弊してノイローゼになったか不登校か、何かネガティブな要素があっての転地だと勝手に推測してもらえるだろう。そうすれば、実際に何があったか詮索されにくい。母綾子の浅知恵だったが、英里もそれに乗ることにしたのだ。
うんざりだ。これから出会うひとみんなと、この会話をすることになる。自分の転校の理由について。
まあいい。
自分は社交的な人間ではない。
英里は思った。学校では、誰とも深く付き合わず、教室の片隅でひっそり目立たないようにやっていけばいい。これまで通っていた高校でと同じに。
「届いた荷物はお部屋に入れておいたけど、あれだけでよかったの? 随分少なかったよ」
叔母が言った。叔父がうなずいて続けた。
「そうそう。足りないものがあったら言いなさいね。遠慮しないこと」
一応ベッドと机と、小さなタンスは置いてあるけど、それじゃ足りなくなると思うの。叔母は楽しそうにそう言った。友彦は勢いよく立ち上がった。
「俺、案内する。おいでよエリちゃん」
英里は先ほどからの戸惑いに友彦を見上げた。
「……『エリちゃん』?」
「あ」
友彦はしまったという顔をした。見る見る真っ赤になっていく。
暢恵がニコニコして言った。
「もうこの子ったら、昔からあなたのこと、『英里ちゃん英里ちゃん』ってホント大好きなのよねー! 漢字の読み方を訊いてくるようになって、『英語の英に、里はリと読むから、エリちゃんだー』って、五歳のときから。英くんが来ると片時も離れなくて。覚えてる?」
そうだったろうか。
友彦が五歳のときなら、自分は三歳くらいだろう。だが、この家に見覚えはあまりない。
それから、この叔父叔母と従兄には数度会っているはずだ。最後は祖母の葬儀、確か英里が六歳のときか。
友彦は頬を赤く染めたまま、母に「余計なことを言うなよ」と早口で文句を言い、ぽおっと見上げている英里の目の前に手を突きだした。
「さあ、もう行こう」
大きな手。骨張って、少しカサついた男子の手だ。
英里は差し伸べられたその手をそっとつかんで立ち上がった。
階上の子供部屋へ、友彦の背を見つめて階段を上がる。
二階には二部屋あった。
「エリちゃんの部屋は、ここだよ」
もう暗くて方角は分からないが、階段を登ってすぐの方に通された。四畳半くらいの板敷きの部屋は、ベッドと机でいっぱいだった。
通した部屋に英里を置いて、友彦は出ていき、またすぐ戻ってきた。
「カッターにはさみ、テープ。荷物解くのにこれだけあればいいかな。俺、手伝うよ。どこから行く?」
隣が友彦の部屋らしい。友彦は持ってきた品ものを机に置いて、袖を捲り上げた。英里は慌てて顔の前で手を振った。
「いい、いいよ。大したものはないんだ。ほんの身の回りのものしか持ってきてないから」
英里がそう言って断ると、友彦は淋しそうにしょげた。
「そう? ホントに大丈夫?」
そんな顔をされると可哀想になる。困る。
英里はがんばって、少し笑った。
「うん。大丈夫。何かあったら頼むから」
「分かった」
英里の笑顔に、友彦は嬉しそうにうなずいた。
「そいつらは」
友彦は机の上の物品を指差した。
「急がなくていいから。ゆっくり使ってて」
「ありがと」
友彦はドアに手をかけた。
「じゃな。エ……」
友彦の横顔がまた赤くなった。「エリちゃん」と言いそうになって、慌ててそれを呑み込んだのだ。
友彦は口許に手を当てて固まっている。
何と、愛らしいことか。
純朴な田舎の子供。青年というより、まだ少年だ。
友彦の頬の熱は、英里の胸に、身体の芯に移って、英里を落ち着かなくさせる。
「……いいよ」
「え」
英里は目を伏せた。自分の声がかすれ、震えている理由が英里には分からない。
「いいよ、『エリ』で」
「え……」
友彦がそれを聞いてどんな顔をしているのか。
怖いのに、見たい。英里は目を上げた。
英里を見つめる友彦と目が合った。
友彦は笑っていた。
心の底から嬉しそうにして、優しい目で笑っていた。
でも、恥ずかしいから、「ちゃん」は止めて。
英里がそう頼むと、友彦はやっぱり嬉しそうに「分かった」と首を振った。
「じゃ」
照れくさそうに、名残惜しそうに、友彦はドアを閉めた。
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