71人が本棚に入れています
本棚に追加
隣の部屋のドアが開く音がして、すぐに閉まった。
足音が隣の部屋を横切って、勉強机の椅子がギシと鳴った。
そこまで聞いて、英里はベッドの上にパタリと倒れ込んだ。少しだるい。疲れているのだろう。
朝、早かったし。
シーツもかけてないし、上掛けもたたんだままベッドの上に置かれている。メイキングは自分でしないと。今寝込んでしまってはいけない。
そう思いながら、英里は起き上がれず寝転んだままでいた。
慌ただしすぎて、自分の身に起こったことが整理できない。
今朝も蓮見の家を出たのは八時だった。
ここ数日のことは思い出したくない。英里は記憶の整理を放棄した。今さらだ。
今日見た景色。寒々しい田園。流刑地を移動する車窓。住んでいるひとには失礼極まりないが、そんなイメージが英里の心を冷やす。英里はまたいつもの黄色い温かな海へ逃げ込む。
頬を撫でるそよ風。花の香り。穏やかな温もり。
英里を大切にしてくれる誰か。その手が幾重にも載せてくれる花冠。掛けてくれる首飾り。
(エリちゃん……)
友彦の声が耳に蘇った。
ヤバイ。
身体が……反応する。
英里は唇をかんだ。
考えが浅かった。「タイプ」ってのはこういうことか。
冒険を母に見られ、英里の自堕落な生活が暴き出されてから。
最後にしてから、十日経っている。
あのとき、最後のあの朝は、誰といたっけ。
英里はそれなりに楽しんだ記憶を手繰った。
身体に残った感触を思い起こした。
そのひとも、それなりに英里のことが気に入っていて、何度かは冒険を伴にした筈だった。だから、ある程度英里の身体を知っていて、それで――。
思い起こそうとしたが、そのたび記憶の中の誰かは友彦の顔になった。何度も友彦のイメージを追い払おうとしたが、ダメだった。友彦が呼ぶ自分の名が、その声が妙に甘くて。
倒れ込んだベッド。壁の向こうに友彦がいる。
(ああ――――!)
どうしよう。
こんなこと、もし知られたら。
自分はもう、どこにも行くところがない。
帰れるところももうないのに。
どうしよう。
英里はこの騒動が始まって以来、初めて。
泣いた。
そうして英里は生涯でたった一度の恋に、落ちた。
最初のコメントを投稿しよう!