1、北へ

5/5
前へ
/202ページ
次へ
 隣の部屋のドアが開く音がして、すぐに閉まった。  足音が隣の部屋を横切って、勉強机の椅子がギシと鳴った。  そこまで聞いて、英里はベッドの上にパタリと倒れ込んだ。少しだるい。疲れているのだろう。  朝、早かったし。  シーツもかけてないし、上掛けもたたんだままベッドの上に置かれている。メイキングは自分でしないと。今寝込んでしまってはいけない。  そう思いながら、英里は起き上がれず寝転んだままでいた。  慌ただしすぎて、自分の身に起こったことが整理できない。  今朝も蓮見の家を出たのは八時だった。  ここ数日のことは思い出したくない。英里は記憶の整理を放棄した。今さらだ。  今日見た景色。寒々しい田園。流刑地を移動する車窓。住んでいるひとには失礼極まりないが、そんなイメージが英里の心を冷やす。英里はまたいつもの黄色い温かな海へ逃げ込む。  頬を撫でるそよ風。花の香り。穏やかな温もり。  英里を大切にしてくれる誰か。その手が幾重にも載せてくれる花冠。掛けてくれる首飾り。 (エリちゃん……)  友彦の声が耳に蘇った。  ヤバイ。  身体が……反応する。  英里は唇をかんだ。  考えが浅かった。「タイプ」ってのはこういうことか。  冒険を母に見られ、英里の自堕落な生活が暴き出されてから。  最後にしてから、十日経っている。  あのとき、最後のあの朝は、誰といたっけ。  英里はそれなりに楽しんだ記憶を手繰った。  身体に残った感触を思い起こした。  そのひとも、それなりに英里のことが気に入っていて、何度かは冒険を伴にした筈だった。だから、ある程度英里の身体を知っていて、それで――。  思い起こそうとしたが、そのたび記憶の中の誰かは友彦の顔になった。何度も友彦のイメージを追い払おうとしたが、ダメだった。友彦が呼ぶ自分の名が、その声が妙に甘くて。  倒れ込んだベッド。壁の向こうに友彦がいる。 (ああ――――!)  どうしよう。  こんなこと、もし知られたら。  自分はもう、どこにも行くところがない。  帰れるところももうないのに。  どうしよう。  英里はこの騒動が始まって以来、初めて。  泣いた。   そうして英里は生涯でたった一度の恋に、落ちた。
/202ページ

最初のコメントを投稿しよう!

71人が本棚に入れています
本棚に追加