空白を繋ぐ。

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「……健介、起きてる?」 「……」 「今朝はメッセージカードと折り紙のお花、ありがとうね」 「……」  扉の向こうの健介は、照れているのか返事をしない。けれど何かカチカチと小さな音がするから、起きてはいるはずだ。 「明日はお布団干そうと思うから、ちゃんと朝起きてね。それから、ゴミがあったら出しておいて」 「……」  しばらくの無言の後、部屋の中でがさごそと音がする。早速ゴミをまとめてくれているのだろう。言ってすぐやってくれるなんて、本当に、素直ないい子に育ってくれた。 「……ん」  そして少しして、ゴミ袋を片手に健介が部屋から出てきた。  久しぶりに見上げたその顔は、しばらく髭を剃っていないからか、ずいぶんと顔色が悪く見えた。 「ふふ。明日の朝は、健介の好きなハンバーグとオムライスにするから楽しみにしててね」 「……俺の好物とか……母の日の折り紙とか、いつの話してるんだよ」 「え……?」 「……、……何でもない。今日はもう寝る」 「ああ、遅くにごめんなさいね。おやすみ、健介」  バタンと目の前の扉が閉まって、わたしはゴミ袋を片手にリビングへと戻る。  健介はここしばらく髭も剃っていないし、顔も洗っていない気がする。明日はお布団を干して、お風呂をすすめてみよう。  昔みたいに身支度を整えてあげたら、綺麗にする気になるだろうか。いくら家から出ないとはいえ、あのままではいずれキノコでも生えてしまう。 「よいしょ……」  わたしはそんな考え事をしながらリビングに戻り、他のゴミ箱のものも纏めようと一旦ゴミ袋を置いて、ふと、手が止まった。 「……あら? わたし、何しようとしたんだったかしら……」  唐突な空白。一歩足を動かす間に何かがすぽんと抜け落ちたような、不思議な感覚だ。  最近、こういうことが増えた気がする。けれどまあ、何かを忘れていることを覚えている内は、まだ大丈夫だろう。  数歩で辿り着くリビングからキッチンまでを何度もうろうろとしながら考えて、わたしはハッと思い出した。 「……ああ、そうだ。キノコを使ったハンバーグとオムライス! ふふ、明日は健介の小学校の入学式だものね、とびきり美味しいのを作らないと」  思い出せたすっきりそのままに早速冷蔵庫に向かおうとして、ふと足元に落ちていたビールの空き缶やお菓子のゴミが入った袋を蹴飛ばしてしまい、わたしは眉を寄せた。 「あらやだ、お父さんったらだらしないわね。こんなところにゴミを置きっぱなしにして」  うちでビールなんて飲むのはお父さんくらいだ。健介はまだ赤ちゃんなんだから、飲酒喫煙は控えて欲しいのに。本当に、仕方のない人だ。  ゴミ袋を端に避けて、満足したわたしはリビングに戻る。そしてふと、また空白が訪れた。  今まで何をしていたのか、何をしようとしていたのかすこんと忘れてしまい、わたしは立ち尽くす。 「やだわぁ、最近たまーになるのよね……わたしも歳かしら……。あら」  何を忘れたのか思い出そうと辺りを見渡して、不意にテーブルの上の小さな紙が目に入る。 『お母さん、いつもありがとう。これからもよろしくね! けんすけ』  ああ、そうだ。何かが抜け落ちたとしても、どんなに疲れていても、いつかおばあちゃんになったとしても、わたしは大丈夫。これだけは忘れない。  テーブルに置かれた幼い筆跡のメッセージカードと歪な折り紙の赤い花が、きっとこれからも『健介のお母さん』のわたしを繋ぎ止めてくれるのだろう。
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