第一章 5

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 自分がマウンドに上がる日はもう来ない、しかしながら篤史の中に入って球を生み出すことはできる。そんな具合の思いがよこすものであろうか、その笑みは。  伝染するのであった、その笑みはいとも簡単に篤史に伝染した。崢との合作だ、いくらでも投げたいと思った。  体内に、崢がいる。この右腕は確かに崢に操作され、生み出されるこの球は確かに二人の作品であった。来る日も来る日も投げ続けた。カーブだけを投げ続けた。二人の作品のみを、ひたすらに。いつの間にか直球は封印されていた。それはとある日、崢にこう言われたからであったか。 「おまえの直球は全国で通用しない」 と。  辛辣ともとれるその言葉を篤史は妙な素直さで聞いていた。直球には自信があった。威力があるとも評されてきた。確かにそれはキャッチャーミットを唸らせた。バットに当たったとしてもそれはバックネットだとかファウルグラウンドだとかに舞い上がった。だからこそ強豪校から誘いが来たのだ、しかしながら崢はそれを否定した。短すぎる言葉だった、理由も言わなかったがそれは確かなる桐原崢の言葉であり、ただそれだけの事実が篤史を妙に納得させた。今のおまえは直球をひたすらに磨き上げるんだ、との、どれほどの月日がたとうが念仏のように唱え続けられてきた兄の言葉さえもその時には完全に記憶から消え去っていた。いや、崢が消したのか。崢の切れ長の目がすぐそばにあって、篤史の目を真っ向から見据えていた。  その目が、笑った。唇も、笑った。そこに夕日が差してきて、それはまさに夕方の海辺であり、確かにさざ波の音がした。 「おまえは俺の分身になるんだ」  崢は言った。その手が篤史の手を掴み、彼の体温が自身に染み込んでくるのを篤史は確かに感じていた。
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