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「学校終わったらここに来いよ、そこの公園で練習だ。引退してどうせ暇だろ」
答えは来なかった。誰かに変化球を伝授することで野球を続けたい、という言葉の、誰か、に篤史を選んだ理由、それを再度聞くのも憚られ、
「暇じゃない」むっつりと篤史は答える。「大事な時だ。強豪から誘いが来てるから」
「受験勉強の必要もない。しばらく試合もない。どうせ彼女もいないんだろ」
「どうせって何だよ」
「篤史はウブだって先生言ってたよ」
事あるごとに兄が出てくる。先生、であったり、兄ちゃん、であったりその時々で表現が変わるが、話に兄が登場するのは何回目になるか。崢は兄とよく話をするのだなと篤史は思った。教諭としての兄の姿は見たことがないから知らないが、教諭と生徒として二人は放課後の教室だとか廊下だとか、色々な場所で話をしているのだろう、そう思った。
「穢れを知らないんだ。誰にも汚されてない」
ゆったりとした言葉の流れと共に崢の右手が伸びてくる。篤史の頬に触れた。ふわりと笑った目が篤史の目を見ていた。突如として自分が幼子になったような気がする。
「さわんな」
その手を払いのけた。同時にベッドから立ち上がろうとする。
「ごめん」
笑った声が追ってきた。篤史の背後から崢の両方の手が回ってきて篤史の肩を抱いた。
「怒ったか」
耳元に崢の声がかかる。鼻腔に崢の匂いがかすめた。
「ごめんて」
崢の指が後ろから篤史の頬をつねった。ますます幼子となった。同い年だ、ライバルとしてぶつかり合ってきた男同士のはずである。背後の男からは余裕というものを感じた。そうだ、合点がいった。崢の飄々としたさま、その理由、それはおそらくこの余裕だ、彼の身から漂うこの得体の知れぬいい匂いと似たような、なんとも表現しがたいもの。確かに彼が纏うもの。
「いい匂いがする」
耳のそばでゆうべ言われたのと同じ言葉を囁かれた。その手が篤史の胸元に降りた。
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