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「帰る」
反射だった。篤史は崢の手を払ってベッドから立ち上がった。身体が離れたことで彼の体温が遠のいた。その匂いも、また。
「今度の日曜の昼、来れるか」
背中に声がかかった。振り向くと自分の背中の後ろあたりに両手をついてベッドにあぐらをかいた崢が篤史を見上げていた。少し小首を傾げるようにして、ゆったりと笑って。
頷いていた。頭が勝手にそうしていた。
「うん。じゃあな」
そう言って崢が笑う。彼の背の後ろには水槽があった。青々とした水草や色とりどりの熱帯魚たちが優雅にも揺れていて、まさに森の中だ、そこに崢がいるのだった。
「どうした」
問われて自分が崢のさまに見入っていたことに気づく。
「意外にもよく笑うんだなって思った。いつも仏頂面だったから」
口から出まかせに篤史はものを喋った。
「おまえのような鉄仮面じゃない」
笑いながら崢は言う。それから彼は不意にベッドから立ち上がり、少し歩を進めて篤史の目の前に来た。
同じくらいの身長だ、いや、少しばかり崢のほうが高いのか。その目が篤史の目をじっと見つめた。その瞳には確かに篤史の姿が映り込んでいた。
「西山」
苗字を呼ばれる。その声が少し掠れたような気がした。
「篤史でいいよ」
そう伝える。ふっ、と崢が笑った。彼の右手が伸びてきて篤史の顎を掴んだ。
「先生に似てんな」
崢は言った。
兄弟である。であるから似ていて当然なのだ。兄と似ているとこれまでもよく言われてきた。篤史は兄の顔に若干、女なるものを混ぜ込んだような顔であるとよく描写されるわけだが、要するに兄ほどの塩辛さや無骨なものはなく、長めの睫毛や目の下にふっくらと存在する涙袋が篤史を女のようなものに傾かせているらしい。それでも素材が似ているのだ、なぜなら、兄弟だから。
切れ長の目が篤史を捕らえていた。その目が笑っていないことに気づいた。笑わずただ真っすぐに、その瞳は篤史の目を見据えていた。
ものを言おうとした。だが何を言えばいいのか分からなかった。そうしている間にも崢の笑わぬ目は立ち消えて、つまりふわりと笑って、
「じゃあな」
篤史の顎から手を離すと彼は言った。日曜な、と。
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