第一章 6

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第一章 6

 クラクションが鳴る。派手なその音は田んぼ道によく響いた。犬を連れて散歩中の老夫婦だとかジョギング中の若者が振り向いた。子供らのはしゃぐ声や虫の声くらいしか聞こえてこない片田舎にそんな音が響き渡れば誰もが振り向くのである、救急車のサイレンでも鳴り響けば尚更。  もちろん篤史もその一人であるから当然のように音のしたほうを振り向いた。見覚えのある車だ、まぎれもなく兄のものであった。田んぼ道に似合わぬ艶々のそれは篤史のもとでするすると速度を落とした。夕焼け色を浴びた助手席の窓がゆったりと開く。 「篤史」  兄の顔が覗いた。右手でハンドルを握り、左手で篤史に手招きをしている。 「おいで」  兄が笑うと篤史も笑う。まるで条件反射のように。  自慢の兄であると言っていい。こういった時などは特にそんな思いが強まった。左手でハンドルを操作し右手は運転席のドアに預け、兄は実に滑らかな運転をする。田舎ゆえなのかやたらとやかましく音を立てながら車を飛ばす若者が多いのだが、そんな時兄はいつだって穏やかに笑って、ああいうのを空のバケツって言うんだよ、と言った。兄の車は実に静かであった。テレビもラジオも付けないから人の下品な声など一切ないし、余分な物も一切乗せない、だからいつまでも展示車のような静けさをたたえ、あるものと言えば涼やかに鼻腔を撫でる香水の香くらいのものか。 「練習はもう終わったの?」  助手席で篤史は聞く。西の空に太陽がいる、であるから兄は自身の勤める中学のグラウンドで野球部員達へ指導をしている最中のはずだった。ジャージ姿であるし今日は途中で自主練に切り替えでもしたのだろうか。 「今日はおまえと過ごそうと思ってな」  兄が言う。その横顔もまた静かであった。 「野球部の連中ばかりに構っておまえをずっと放置してたからな。久々に一緒に投球練習をしよう」  車は夕焼け空に向かって進んでゆく。確実に家へと向かっている。投球練習、それを家の庭で行う為に。  投球練習ならもう終わった、などと言えるはずもなく篤史は助手席で黙ることとなった。今日も崢に教わりながら相当な球数を投げ込み、先程彼と別れて帰り道を一人で歩いていたところであった。 「肩は出来上がっているだろう」  兄は言う。片手でハンドルを握り、真っすぐ前だけを見つめたまま。 「ずーっと練習してたもんな。見てたよ」  静かなものであった。実にさらりと、そう言った。見てたよ。その言葉が意味するのは崢のアパート近くの公園で崢に教わりながら投げる篤史のさま、まさにそれである。
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