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艶やかな髪の記憶①
半月。
穂波は数えた。
彦乃と暮らすようになって早くも半月が過ぎた。
離れの軒下から五羽の若い燕と親鳥とが巣立っていった。
自分自身に途惑っている。羞恥心でいたたまれなくなる瞬間もある。そうした瞬間はたいがい夕餉のあとに襲ってくる。
この晩も。
膳も片づけられ、二人の通いの主婦は帰っていき、満佐は子供部屋で雪を寝かせつけてくれている。茶の間で彦乃と二人きりになった。
この時間帯が一日ごとに少しずつ長くなっている。最初は数分だったものが、十分になり十五分に延びて。
もう何日も言葉が舌の先にあって、出番を待っている。ここまでのところ、穂波は何も言えずに終わっていた。
そろそろ我慢の限界だ。あとで書斎で悶々とすることになるだろう。言うほかない。――おい、言ってしまうのか?
「彦乃」
「はい?」
「まだ婚約期間中でもあるし、急いで主婦みたいな恰好をしなくてもいいのではないか、と……ないか、と思う」
バカヤロー。そんなこと言ってしまうのか? 本気か?
「髪を――」
深呼吸、ひとつ。
「髪?」
「結い上げないでもらえるだろうか。以前のように。あれは何という髪型なのか知らないが」
予期したことながら、彦乃の顔にどう見ても途惑いの色としか思えないものが広がっていく。
「結い流し、でございますか?」
「わからないが。とにかく、あれのほうがいい」
「束髪はお気に召しません……でしょうか?」
「いや。そんなことはない。彦乃に似合っている。彦乃には何でも似合うが、あれのほうがずっといい」
彦乃はややうつむいて何事か考えているようすだった。
ひとたび口から出てしまった言葉。取り戻せない。
穂波はひどく後悔していた。赤面しているのが自分でもわかる。顔を晒せない。脇の新聞を手にしたりする。
「私は穂波さまのおっしゃるとおりにしたいと……思いますが……お満佐さんやほかの方々が奇異に感じられるかと」
そりゃそうだな。
世間の常識を穂波も知ってはいる。常識知らずでは、小説という嘘八百は書けない。
けれど。
穂波には自覚がある。自分は常識外れの人間だ、と。
常識を踏み外して生きることは、少しばかり、容易ではない。その少しばかりに、彦乃はつきあってくれないだろうか?
彦乃ならつきあってくれる。根拠のない自信があった。
まだいくぶん赤みを帯びているだろう顔を彦乃へ向ける。
「周りは奇異に受け取るかもしれない。私は気にしない」
「わかりました」
「あ……困らないか、彦乃は? 奇異の目で見られて」
困るだろう。わかっていて、なぜそれを訊く。自分の甘えにうんざりする。
「困りません」
彦乃は微笑んでくれた。
ふと思いだす。みさ緒を。新婚当時のみさ緒に同じことを言った自分を。
あのとき、古川満佐も通いの主婦二人も、何も言わずにいてくれた。この常識外れの男が妻に自分好みの恰好をさせるのを、黙って見ていてくれた。善き婦人たちである。
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