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六つの写真立て
三月の末とはいえ、半日陽光の下で過ごすと、陽射し疲れとでもいうのか、軽い疲労が襲ってくる。ふだん屋内で机に向かってばかりの時間が多い穂波にとっては、ちょうどいい日光浴ではあったのだが。
雪は楽しそうだった。近ごろ仕事に追われて雪の相手をしてやれずにいた穂波は、わずかながら罪滅ぼしができたと感じていた。
雪はだんだん母親に似てきている。くりくりとよく動くいたずらっぽい目。何かの蕾を連想させずにおかないふっくらした唇。色白すぎるところもそっくりだった。
みさ緒に似たのなら……と、穂波は想像する。無垢な心も受けつぐのだろうか? 雪が無事に成長して、みさ緒の生まれ変わりのような人間になってくれるのなら、自分はどこで野垂れ死にしても悔いはない。
うさぎの一羽や二羽、今すぐ買い与えてもいいのではないか? 明日という時間さえ不確かだというのに。自分の育児方針に、にわかに自信が持てなくなってくる。
うさぎ――。
名前もわからない娘の顔が、声が、炭酸水が喉を落ちていくときのように、やけにはっきりした感覚を呼び起こしながら、穂波のなかでよみがえってきた。軽い動揺があった。
なぜ、ここであの娘を思いだす?
ランプと筆立てのあいだに置かれた物へ目が行く。大きさも形もさまざまな六つの写真立て。五枚の写真はキャビネのポートレートで、手札サイズもかわいらしいと思い、一枚飾ってある。枠はそれぞれ、淡い珊瑚色の繻子張り、若草色の繻子張り、可憐な矢車菊を染めつけたマイセンの磁器などなど。
写真立ての後ろに、穂波はいつも花を一輪飾っておく。今、六つの微笑みに色と香りを添えてくれているのは麝香豌豆(スイートピー)だった。まだ花卉農家で栽培されていないこの花は、穂波が板切れとガラスで手作りしたごく小さな温室で開花したものだ。
穂波は思いだす。自分が種を手に入れて帰宅したとき、「風よけ程度でいいの、温室のようなものがあれば」と口にしたのは……。土をやわらかくほぐし、種蒔きをした白い手の持ち主は……。矢車菊、雛菊、鷺草、菫、そして麝香豌豆。茎の細い儚げな花をこよなく愛し、夫の机に飾ってくれたのは……。
写真立ての一つに無意識に手が伸びた――が、なぜか触れることができなかった。
穂波は書斎を出た。小さな中庭を抜けて母屋の勝手口から入る。廊下の右手にある部屋の前で声をかけた。
「お満佐さん、雪はもう寝たでしょうか?」
「もう、とっくに」
という声とともに、古川満佐が戸口に顔を見せた。
古川満佐は去年還暦を迎えたはずだが、表情も声もまだまだ若々しい。自分の育ての母ともいうべきこの婦人にはいつまでも元気でいてほしいと、穂波は心から願っていた。自分の身に何か起きたとき、雪を託せるのはこの人のほかにいない。
「なんですかねぇ、とてもご機嫌がよろしゅうございましたよ。うさぎさんが待っててくれるから、とかなんとかおっしゃって」
古川満佐に居室として使ってもらっているのは六畳の和室で、今、文机の上にランプが灯っていた。文机の脇にある手文庫の上には、数巻の漢籍がきちんと重ねられてある。旧士族の娘であるこの婦人は、今も学ぶことを怠らないようだった。
畳に雪の小さな着物が広げてある。繕いものらしい。こんな頼りない照明のもとで針仕事とは、満佐の齢を考えると、恐れ入るというほかない。
「お満佐さん、繕いものはありがたいですけどね、昼間になさい。命令ですよ。眼に悪い。それに、時間のあるときで結構ですよ。雪の着るものなら、ほかにもいくらでもあるでしょう」
「殿方はこれだから」
満佐は笑った。
「繕いでもなんでも、家事というのはどんどん片づけていかないとすぐに溜まってしまうものなんでございますよ。――お夜食をご用意いたしましょうか?」
満佐は、穂波が空腹を覚えて離れの書斎からわざわざ足を運んだ、と思ったようだった。
自分はなぜここに突っ立っているのか? 穂波は急いで言い訳を考えた。
「それには及びません。茶の間に置き忘れた懐中時計を取りにきただけなんです。その……ちょっとあれかな、と思って。雪がまた絵本の読み聞かせをせがんだかな、と思って」
うさぎを抱いていた娘の姿が眼前にちらちらする。どういうわけなんだ?
「絵本は無しでございました。今夜はお疲れのようでした。あっというまに寝息をたてられましたよ」
「そうでしたか。夜中にじゃまをしましたね。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ、坊ちゃま」
穂波が踵を返そうとしたとき、
「雪坊ちゃまはみさ緒さまに似ていらっしゃいましたねぇ。本当によく似ておいでで」
あらぬ方を穂波は見やった。
「……おやすみなさい、お満佐さん」
母屋から書斎のある離れへ戻る。
厨房でスコッチをグラスに注いだ――注いだものの、グラスに口をつけるでもなく、その場に立ち尽くす。
あの娘と目が合った一瞬、何かが起きた、と思う。自分を目覚めさせるような何かが。この胸を深いところから揺さぶるような何かが。
説明がつかない。おかしなことだ。自嘲ぎみに、くすりと笑っていた。短い出会いだったにもかかわらず、驚くほどはっきりと娘の顔かたちを記憶している自分に気づかされながら。
睫の濃い大きな目をしていた。なぜか、今にも泣きだしそうにも見える不思議な面差しの娘だった。
化粧気はなかった。幼女のころのままなのではないかと思えるほど、手入れのあとの見えない眉。顔はまったくこしらえていないのに、大きなリボンを髪に留め、めいっぱい着飾ってきました、という風情が微笑ましかった。…………。
穂波は途惑った。
自分はどうしたというのだ? さっきから、あの娘のことばかり考えていないか?
強い酒を呷った。むせた。
――もちろん。もちろんですとも。
娘の声が耳の奥でこだまする。
不意に、全身が熱くなってきた。グラスが手から滑り落ちそうになる。すんでのところで拾いあげる。
穂波は書斎へ戻った。あと二時間ばかり、集中して仕事をしよう。
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