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丑三つ時の死神
丑三つ時。
道具を背中に、闇夜を死神が行く。漆黒のフード付きマントの裾は、ひきずるほどに長い。そのマントを翻し、ときに、樹の梢に飛び乗ったりする。見おろすと、イギリス公使館のむやみに威風堂々を誇るかのような建物が目に入った。ちょいとばかり北へ寄り過ぎたようだ、と気づく。
すうっと地上に舞い降り、泳ぐように滑るように進む。来た道をすこし戻る。公使館の敷地から南の方角へ。次いで、西の方角へ。
通りのようすが変わっていき、町屋の多い区画に出る。野良犬が吠える。二頭、三頭と集まってくる。痩せ犬ばかりだ。目深に被っていたフードをわざと後ろへ押しやって、半分が骸となった顔をさらけだし、見せつけてやる。しゅーっと、氷のように冷たい息を吹きかけてやる。犬たちは尻尾を巻いて逃げていった。
さらに進む。生垣や板塀に囲まれた細い路地に出る。
――湧いてきたな。
ひらり、と死神は板塀のひとつに腰掛けた。
ぼろぼろになった白い着物の裾を引きずる誰か。首がないので男か女かわからない。背丈から判断すると、男のようだが。その誰かが、死神のそばを通りすぎ、小さな庭のある家のほうへと向かう。
と、今度は、その白装束の後を追うように、顔の真ん中にえぐられたような傷のある女が、よろめくような足取りで歩いていく。着物は血みどろで、元の色柄はわからない。子供のような小さい影も湧いてくる。あとからあとから……。
亡霊たちが吸い寄せられていった家の庭へ、死神も入っていった。菫色の瞳から強い光を放ってみる。探照灯の役目をする光を。
家屋の南西の角あたりに、透明感のある菫色の輝きが、小さな流体となって浮かびあがる。流体は、面になったり、線になったり、星屑のように散らばったりする。死神は歓喜した。
「藤村彦乃。見つけたよ」
菫色の流体の動きが激しい。
「私がいたら、そりゃ、ざわつくよねぇ。共振現象とでもいうのかねぇ。苦しいかい、彦乃ちゃん? 定めと思って、あきらめるしかないねぇ」
◇
あたりの空気が冷たい。冷たくて重い。生臭い。
どこからか何本もの手が伸びてきて、頬や首筋に触ろうとする。誰かの声がする。男のざらざらした低い声。すすり泣く女の声。ひゃんひゃんというような、意味不明の幼い声。
目覚めなきゃ。これは悪い夢。現実じゃない。寝床のなかで彦乃はもがいた――もがいたつもりだった。手足が鉛のように重い。首を動かすこともできない。助けて……助けて!
叫び声をあげそうになった瞬間、目が覚めた。真っ暗な室内を、青い鬼火がいくつも、糸のように細い尾をひいて飛び交っている。
涙があふれた。恐怖の涙だった。誰にともなく、何にともなく、祈る。ひたすら祈る。何かの報いでしょうか? 報いなのだとしても、堪忍してください……どうかもう堪忍して……
◇
菫色の流体が、捻じれたり粒子状に散ったりを繰りかえす。そのさまがあまりにも狂おしげで、死神をひやりとさせた。
潮時だ。帰ったほうがよさそうだ。ここは慎重にならなくては。大事なあの娘に正気を失われたのでは、元も子もない。
死神は背負っていた道具を手にした。持ち重りのする道具の長い柄を両手でしっかり支える。湾曲した刃が、冷たく妖しく光る。
「さあて、と。おまえたちはもう、うろうろするんじゃあ――」
刃渡りの長い道具で、あたりをさっとひと薙ぎ。
「ないよ!」
彷徨っていた亡霊たちが、風に吹かれた塵のごとくに散じて消える。
今日の仕事は収穫とは呼べない。ただの掃除、どこかの間抜けな仲間の残務整理に過ぎない。
大鎌を背に、マントを翻し、ホリデイは来た道を戻った。泳ぐように、滑るように。
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