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サンドイッチケーキ①
雨交じりの強い風が、花の季節をあっというまに連れ去っていった。
観桜会から半月後のこと。御殿山に建つ蔵田家の豪壮な邸宅。そのテラスのベンチに女学校の同窓生三人が腰掛け、雑誌『女學世界』の最新号を覗きこんでいる。
「この着物とリボンの色、とってもおしゃれですこと」
花扇千賀子が挿絵のページを指さす。少しずり落ちた眼鏡を指先で押し上げる。
「付録の絵はがき、母が使ってしまいましたのよ。信じられませんわ」
瑠璃子が苦笑した。
この一月に創刊されたばかりの雑誌は、女学生のみならず幅広い世代の女性たちの人気を集めていた。多色刷りの挿絵、付録、どちらも美しく、評判がよかった。「莫大なる印税収入」を稼いでいる人気作家、望月櫻醉の連載小説も読める。
「この雑誌の名前、ちょっと残念ですわね」瑠璃子が続ける。「あたくしたち、もう女学生じゃなくて……」
女学校を卒業した今も、三人とも髪は結い流しで、大きなリボンをつけている。とはいえ、海老茶の袴を身に着けることは、もうない。
「それ、おっしゃらないで」
千賀子が笑う。
つられて彦乃も微笑んだ。気持ちは、少し、しぼんでいる。
そう。子供じゃない。女学生でもない。将来について決めなければならないのだ。先週、父親から見合いをほのめかされた。父親の口ぶりでは、すでに具体的な名前が頭にあるようだった。彦乃は「まだどこへも行きたくないのですが……」と、言えただけだった。父親は、何か考えるようすだったが、温かい笑みを見せ、「そうか」と応じた。以来、それきりになっている。
「よろしいかしら?」
改まった口調で瑠璃子が言った。
「新聞で報じられる前に、お伝えしておいたほうがいいかしら、と」
「新聞? まあ、瑠璃子さん、もしかして――」
千賀子が目を輝かせた。彦乃も瑠璃子を見つめる。
瑠璃子は膝の上で両手をいやにきつく握りしめた。すっと背筋を伸ばす。
「あたくし、堂本雅尚さまと婚約しましたの。伯爵家の雅尚さま」
少しはにかんでいる。
堂本という苗字が、彦乃の心の音叉を軽く叩いた。
「おめでとうございます」
千賀子が言う。一拍遅れて彦乃も、
「おめでとうございます、瑠璃子さん」
瑠璃子は、それがトレードマークの、愛くるしい華やかな笑みを見せた。
「ありがとうございます。なんだか、照れてしまいますわね」
「堂本雅尚さまは、すぐ上の兄と学習院で同級でいらしたんですのよ」
花扇子爵家の末娘である千賀子が言った。
いつか千賀子から聞いた話では、と彦乃は思い出す。すぐ上の兄という人は、確か千賀子より六つ七つほど年上だったはず。ということは、堂本雅尚さまという方も二十三、四歳ということになる、と見当をつける。穂波さまはおいくつなのだろう、などと考えてしまう。―私ったら、また余計なことを!
堂本伯爵家の人々について、彦乃は何も知らない。半月前の観桜会で、当主である現伯爵の輝長氏が三十代半ばくらいの紳士、伯爵夫人は二つ三つ年下のようだ、とわかっただけだった。
観桜会への招待を、彦乃は直接に受けたわけではない。お呼ばれにあずかったのは、上流階級の瑠璃子や千賀子の同級生だったからに過ぎない。そして、友人からの誘いを断るなど、まず考えたことがないのだった。そんな妹を姉たちは、浮かれぽんち、とからかうのだが。
瑠璃子はわずかに思いつめたような表情になって、
「嫁ぐ、というのはちょっぴり怖いものですわね、やはり。他人さまのなかへ入っていくわけですから。あたくし、跳ねっかえりですもの、お小言をいただいてばかり、なんてことになるかもしれませんわ。雅尚さまのお母さまは、侯爵家からお輿入れなさった方で――」
「祇園院侯爵さまのお妹君ですわね」
千賀子が言った。
「ええ。祇園院家といえば、いにしえというような時代から昇殿を許されてきたお家柄。しきたりやお作法については、雅尚さまのお母さまから厳しくご指導いただくことになりそう……。あたくしね、お茶とお花は及第点をいただけるかしら、と思っていますけれど、お琴には自信がなくて。フランス語もちっとも上達しませんし。雅尚さまは、フランス語の習得は急がなくていいと、おっしゃってくださっていますけれど」
「お優し~いお方ですのね」
千賀子がからかうような口調で言った。
「ええ、と~っても。――ちょっと、お待ちになって」
晴れやかな表情を取り戻し、瑠璃子が席を離れた。
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