珈琲と葉巻

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珈琲と葉巻

 京橋区丸屋町。「舶来」や「高級」を求める買い物客が多く行きかう。  穂波は、六層の塔が人目をひく洋風建築の前を通り過ぎ、西へ折れた。細い静かな通りを行く。右手に、訪ねるその建物がある。   間口はあまり広くない。こぢんまりとしている。正面の扉の枠は重厚な造りで、嵌っているガラスには曇りひとつない。漢字で社名が表記されている。     斎門商会  扉を押すと、扉上部のベルが鳴った。穂波は中へ入っていった。天井は高く、壁と床は清潔そのものだった。コーヒーと葉巻の香りがまじりあい、漂っている。  ホールの右手にある扉を開けたが、斎門の姿はなかった。  左手の扉を開ける。 ――うんざりするような光景が目に入る。 「雅尚っ!」  穂波は怒鳴った。  雅尚は慌てたようすで乱れた衣服をなおし、そそくさと部屋を出ていった。羞恥心は残っているらしく、顔は真っ赤だった。穂波に叱られると、しゅん、とする。子供のころから変わっていない。 「なぜ、いつもノックをしない?」  斎門がのんびりした口調で応じた。ソファに体を斜めにあずけて、葉巻をくゆらせている。 「ベルが聞こえたはずだが」  穂波は仁王立ちになって、斎門を見下ろした。 「弟に構うな」 「弟? 赤の他人だろうが」 「雅尚は私を、兄さん、と呼ぶ」 「慕われている、ということか」 「そういうことなんだろう」 「自信家だな」 「私が自信家でいるほうが、嬉しいんじゃないのか?」  穂波はざっと部屋を見渡した。いつも感じることなのだが、応接室と呼ぶにはどことなく猥雑な匂いがある。事務室と比べると、壁紙や調度に無用の派手さがあるように感じられる。 「用件はあっちで聞く」  返事を待たず、穂波は最初に覗いた部屋――事務室へ移った。  穂波は、斎門愛用の背もたれの大きな肘掛け椅子に腰かけ、マホガニーの大きなデスクに向かって座を占めた。 「上等な一杯を飲んでくれ」  斎門は部屋を横切った。  事務室の奥にちょっとした厨房設備がある。そこで斎門がコーヒーをいれて運んできた。思わず、穂波は笑ってしまった。 「指を鳴らすかと思いきやドリップとは、ずいぶんもてなしだな」   「そこは俺の席だ」  穂波の前にコーヒーを置きながら、斎門が渋面をつくる。穂波は聞こえなかったふりをした。斎門は肩をすくめ、いつもは顧客が座る椅子に腰掛けた。しばらくは無言のまま、二人ともコーヒーを飲む。 「どうだ?」 「悪くない」 「もっと情熱的に評価できないのか? 特別栽培の品種なんだ。土壌改良から始めて、いろいろ試行錯誤して」 「土壌改良も試行錯誤も、おまえがやったわけじゃないだろう? ブラジルの農園主が頭を使い、工夫し、体を酷使して、上等な生豆を生産した。おまえは札束にものを言わせただけだろう」 「何を言ってるか、わからん」 「もう少し深煎りにしたほうがいいかもしれない」  穂波は最後の一滴を味わった。 「そうか。この次はそうしよう」  えらく真剣な表情で、悪魔はカップの底を見つめた。  穂波は、皮革張りの椅子の肘掛に両腕を載せ、背もたれに身をあずけた。壁に飾られた額の一つを見やる。宮内省御用達。額表面のガラスを毎日嬉々として磨いている斎門の姿が目に浮かぶ。 「で、用件は?」  穂波が言うと、斎門はカップを横へ片づけ、デスクの反対側から身を乗り出してきた。 「結婚しろ」 「いきなり何の話だ?」 「結婚しろ。再婚するんだ」 「冗談はよせ」 「おまえは、あの娘を、(めと)る」 「どの娘か知らないが、断る」 「名前は藤村彦乃。華族女学校とやらを卒業したばかりで――」 「断る」 「いい娘だ」 「断る。無理を言うな」 「うまくいく。この結婚はうまくいく。似合いの夫婦になる」 「帰る」  穂波は立ち上がった。恐ろしい力が、両肩を押さえつけてくる。  斎門の眼の色が、いつもの緑がかった(はしばみ)色からじわじわと変化し、(あか)みを帯びてくる。獲物をいたぶるときの悪魔の眼の色だ。 「藤村彦乃。年は十七。来月には十八になる。牛乳屋の娘だ。きょうだいはいるか、どんな家庭で育ったか、というようなことは、あとで文書にして送る。書類ってのが好きなんだろう、人間は? 健康な娘だ。視力、聴力、その他諸々、問題なし」 「止めてくれ」 「コレラに罹ったことはないぞ。百日咳とか、そういうのは知らんが」 「止めろ……頼むから……」  怒りが冷静さを侵食しはじめている。 「頭の出来は、まあ、並だろう。すばらしく賢い、という印象はない。気立てがいい。いや、気立てがよさそうな感じがする。それよりなにより、愛らしい。実に愛らしい。食べてしまいたくなるほどに――」  穂波は深く息を吸った。息を止め、拳をくりだす――斎門の顔面に打ちつけた。  相手は避けなかった。悪魔の顔は傷つかない。穂波の拳に激痛が走っただけだった。 「無茶するな。氷ならあるぞ。冷やすか?」 「もう一度言う。断る。その……結婚話だ。断る」 「痛むか? かわいそうに」  強引に悪魔は穂波の右手を掴んだ。赤くなりはじめている甲に頬ずりしてくる。穂波が歯を食いしばって耐えていると、悪魔は、にやり、と笑った。舌なめずりした。穂波の右手の甲をゆっくり舐める。舐めながら、穂波の顔にじっとりとした視線を這わせる。  今や、その両の眼は燃えるように(あか)い。抵抗する気力も失せ、穂波は相手の好きなようにさせた。悪魔の唾液のおかげで、すうっと痛みが消えていく。  穂波は、辛うじて、冷静さの残りを掻き集めた。落ち着いた口調を心がけなくては。 「おまえに理解するのは難しいだろうが、人間にとって結婚の意味は重い。男女どちらにとっても。私は何でもする。何でも。ただし、第三者を巻きこむなら、話は別だ。拒絶する。第三者とは、その娘さんのことだが」 「拒絶する? そんな権利がいつからおまえのものになった?」  やおら、斎門は立ち上がった。身長、六フィート四インチ。両手を背中で組み、室内をゆっくりと歩く。穂波に背を向け、窓の外を見やる。その姿勢のまま、言った。雪は元気か、と。
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