タイプライターを打つ悪魔①

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タイプライターを打つ悪魔①

 斎門匠からの「文字による伝言」は、逓信(ていしん)省の人間の手を経ずに届けられる。それは、悪魔の手から、あてずっぽうに投げ飛ばされることによって移動する(するのだろう、おそらく……)。  といって、庭の隅に落下して泥まみれになるわけでも、植木の枝に引っかかって、開封前に風に吹き飛ばされるわけでもない。ちゃんと穂波の書斎に届く。  四月十七日、水曜日。  この朝も、マイセン磁器の写真立ての手前に、忌々しい一通が鎮座していた。  宛名と差出人の名前だけは墨と筆で書かれている。表には堂本穂波。敬称、略。堂本の二文字は小さく、穂と波はばかでかい。文字はあっちこっち向いている。それでも、一点一画、正確ではある。裏には、斎門匠と、これまた不揃いのまずい字で墨書してある。  洋封筒の長辺に、穂波はペーパーナイフを滑らせた。いかにも高級紙という手触りの便箋を取り出す。三つ折りになった三枚の便箋を広げる。一枚目にはTucker Tradingのレターヘッドが使われている。  逓信省は利用しないが、人間が使うちょっとした道具類を自分でも使ってみる。それが斎門の好むところであるらしい。手紙の本文はいつもタイプライターで打ってある。いったいどんな印字リボンを使っているのか、文字は(やや赤みを帯びた)金色だった。読みにくい。おまけにミスタイプが多い。おまけに、そもそも正しいスペルを知らないようなのだ。英語なのだが、ところどころ、意味不明の単語が雑じる。  とはいえ――  このごろ、奇妙だ、と穂波は感じている。  難渋させられることの多かった斎門からの文書。それを近ごろの自分はほとんど苦もなく読み進める。  いつそれに気づいたか、思い出せない。いつのまにかそうなっていた。金文字を指でなぞっていくだけですらすら読める。  ときには音声が聞こえる。あたかも、目の前に斎門がいて話しかけてくるかのようだった。  どういうわけなんだ?  吐き気を催すような感覚があった。自分のなかで何かが起きている、と感じる。自分のなかで欲してもいない能力が芽生えはじめている。そんな気がするのだった。  今日の手紙も――  Hikono……Fujimura……family……sisters……内容が勝手に、脳内に流れ込んでくる。  微かに眩暈(めまい)がして、穂波は便箋を放り出した。  眼前に幼い息子の顔が浮かぶ。  結局、便箋を封筒に戻した。焼却してしまいたいが、そうもいかない。  一度、斎門からの手紙を燃やして処分しようとしたところ、爆発した。爆発は大きすぎず、とはいえ小さくもなく、穂波の呼吸を一瞬止めるにはじゅうぶんだった。火災は起きなかった。書き上げたばかりの原稿用紙が灰になった。胡桃材(ウォールナット)の書き物机に焼け焦げが残った。  どうあっても斎門は自分の拒絶を受け入れない。それは明白だった。深く息を吐き、穂波は封書を抽斗の奥へ突っこんだ。敗北感に打ちのめされている。  一時間後、穂波は京橋にいた。  斎門と交渉しなくてはならない。ずるずると負け続けるわけには、いかないのだ。  斎門商会の応接室で、先ず、確認した。 「互いに知らない同士だ。相手の娘さんは私を知らない。こちらも相手を知らない。その娘さんにどう話をつけるつもりなんだ?」 「話? どうとでもなる」  斎門の顔に笑みが広がり、その人差し指の先に、ぽっ、と小さな炎が点った。  仕立てのいいスーツに身を包んだ悪魔は、指先の炎を穂波の眼前で左右に揺らめかせた。魔の者に不可能はない。とっくに承知しているはずではないか、という無言のメッセージなのだ。  穂波は顔を背けた。猛烈に嫌な予感がする。この帝都のどこかで暮らす一人の娘。その娘がなぜ選ばれたのかわからないが、娘の心が操られるのだ。人間二人を操り人形にして、夫婦にしてしまう。おぞましい企みが実行されるのだ。 「では、条件を言う」  穂波は言った。 「おまえに条件をつける権利はないぞ」 「条件を言う。婚約期間は三年」 「婚約なんて無しだ。すぐにも結婚しろ」 「三年。婚姻はその後」 「条件を認めなかったら?」 「引き金を引く。雪を連れていく」  悪魔がのけぞって笑った。雷鳴の轟きに似た音がその喉から放たれた。部屋じゅうが振動する。 「おまえにそんな真似はできない」
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