タイプライターを打つ悪魔②

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タイプライターを打つ悪魔②

「私だけ逝って、雪がおまえの玩具(おもちゃ)にされる。そんなことは受け入れられない。だから、連れていく」 「おまえには、できない。できない!」  斎門は、指先の炎をぶんぶん振り回した。 「これ以上、無駄口たたくな!」 「婚約期間を認めろ。引き金を引くぞ。三年――」 「三か月なら」 「三年」 「半年。これ以上の時間はやらぬ。諦めろ」 「二年」 「半年だ」 「一年と半年」 「…………。一年。婚約期間は一年だ。おまえが何を考えているか知らんが、小細工は無駄だ。一年のあいだに婚約解消へ持っていく? そんなふうには運ばない。さらに、重要事項がある。よく聞け。この婚姻、拒絶を認めないとすでに言ったが、破綻も許されない。意味は、わかるな?」  斎門は両手を胸の前で交差させた。  ぼうっ、という音ととともに、十指すべての先から火柱が立ちのぼる。悪魔の眼の色が変化していく。じわじわと、炎の色に。 「そういう見世物には飽き飽きだ」  穂波は、はじめて椅子に腰をおろした。  真っ白な雪に覆われた庭が脳裏に浮かぶ。あの冬の朝の記憶がよみがえる。驚愕と無力感の波にのまれたあの朝の記憶が。  火炎が消える。悪魔の顔に満足そうな表情が広がる。 「雅尚と蔵田瑠璃子嬢との婚礼は九月だ。そんな先まで――」 「何の話だ?」 「おまえと藤村彦乃。雅尚の披露宴で出会うだろう。そこであらためて自己紹介もできるだろうが、そんな先まで待つ意味はない。時間が無駄になる」 「私が雅尚の披露宴に招待されると思ってるのか?」 「……そうか。あの婆さんが許さない、か」 「その娘さん、なぜ雅尚の披露宴に来る?」 「来るだろうさ。雅尚の花嫁は親友を招待するだろう」 「親友なのか?」  斎門は眉根を寄せた。 「おまえ、報告書を読んでないな? 苦労してタイプで打ってやったのに。まあ、いい。おまえとあの娘、一度すれちがっているんだが、それについては書かなかったし。サプライズを用意してやろうと思って」 「サプライズ?」 「写真がある」  斎門はデスクの抽斗から八ツ切サイズの写真を取り出し、穂波の手に押しつけるようにした。 「後ろの右端」  女性八人が前後二列に並んでいる。前列の娘たちはスツールに腰掛けている。一見して、観桜会でのものとわかる。後列の右端――あの娘がそこにいた。あの眼差しが……。  穂波は無言で写真を突き返そうとした。押し返される。 「もっとよく見ろ。後列の右端だ。その娘と何かしゃべってただろう? 憶えてるはずだ」 「憶えていない」  写真をデスクの端にそっと置いた。 「♪~~~」  悪魔が歌うように口笛を吹いた。 「憶えて、いない。そうか。とにかく、それが藤村彦乃だ。おまえの花嫁だ」  この悪魔は藤村彦乃と自分を結婚させたがっている。その理由を穂波はまだ尋ねていない。尋ねれば、もうそれだけで悪魔が勝利を確信するとわかっていた。――理由を知りたい? つまり、納得できれば結婚それじたいは承知してもいい、という意味だな? 結構だ。大いに結構!   これまで斎門に命じられた「仕事」について、それをしなければならない背景や目的を詳しく説明されたことがほとんどない。何も教えられずに不満や不安を感じても、けっきょくのところ、命令は絶対なのだ。 「花見パーティでおまえは一人の娘を見初めた。結婚を申し込みたい。このストーリーに不自然な点があるか? 段取りをつける役目は古川満佐がやってくれるだろうよ。仲人役だな。古川満佐だって何も不審に思うまい。穂波坊ちゃんのめでたい再婚だ。雪も喜ぶだろう。若い母親が来てくれる」 「黙れ」 「あの年ごろには、母親の温もりってのが必要だからな。抱きしめてもらったり、やわらかい手で撫でてもらったり」 「口を閉じろ、サイモン・タッカー」 「頬ずりされたり。必要、だろう?」  穂波は悪魔に憎悪の目を向けた。  斎門は椅子にふんぞり返り、 「ぞくぞくするよ、そんな目で見られると。おまえのそういうところが可愛い。そう……俺はおまえが(いと)しくてならない。だから守りたいのだ。おまえ、尋ねようとしないな、婚姻の理由を。訊いてもらいたかったんだがな、俺は。藤村彦乃は、いいhealerになる」 「Healer?」 「おまえが傷を負ったとき、癒せるのは、おそらく藤村彦乃だけだ。いや、別の土地、別の国、くまなく訪ねれば、ほかにもいるかもしれん。だがな、探して見つかる、というものじゃない。実に奇跡的だ。――まったく理解できない、という顔をしてるな。ケミストリーさ。ま、いずれ、わかる」  斎門は立ち上がり、厨房へ消えると、細長い小さな箱を手にして戻った。 「バニラビーンズだ。要るんだろう?」 『美味しい戀の春夏秋冬』の続編。その執筆のために、できれば手に入れたいと思っていたスパイスである。そんな話を斎門にしただろうか? したような気もする。ベルギー産の高級な製菓用チョコレートや、香りづけのためのリキュールなども大量に、依頼せずとも供給される。  穂波の手に箱を押しつけながら、斎門が言った。 「さて、と。今夜、使をしてもらう。十時だ」  いつもの淡々とした事務的な口調だった。
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