子爵令嬢の誘い

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子爵令嬢の誘い

 花扇千賀子から、泊りがけで遊びにきてほしい、と彦乃が誘われたのは、英学塾の授業後のことだった。  英学塾は伝道教会で無料で開かれている。女学校の卒業以来、彦乃は千賀子とともに、月に二回、金曜の午後に通っている。  小間使いに付き添われてやってくる千賀子は、学習が目的ではなさそうで、同窓生と会っておしゃべりを楽しみたいだけのようだった。  千賀子は、家庭教師でも付いているのか、社交的な家庭環境のせいか、英語はわりに得意なほうだ。ちょっと難しい原書の読解力となると、彦乃とあまり変わらないようではあるけれど。 「泊りがけで?」 「よろしいしょ? 来週の土曜日」  彦乃は子爵邸を訪ねたことがない。「お茶にいらして」と二度招かれたが、二度とも熱を出して誘いに応じることができなかった。どちらのときも、その前夜、悪夢に(さいな)まれていた。  何度か行ったことがあるという瑠璃子によれば、離れの洋館が「西洋のお伽話のような雰囲気があって、すてき」なのだという。豪邸に住む瑠璃子がそう評するのだ。せっかくの誘いを二度も断ることになった彦乃は、残念でならなかった。  ――が、泊りがけは無理だ。  未婚の娘が外泊する。父親が認めるとは思えない。滞在先が華族女学校の同窓の家であろうと子爵の邸であろうと。母親は父親の意見に従うだろう。 「お誘い、ありがたいのですけど……泊りがけは……」 「ご両親がご承知なさらない?」 「難しいかと……。ごめんなさい。私はぜひにもお受けしたいんですけど。本当に残念なんですけど」 「いいえ、だめ。だめですわ。ご両親を説得なさらなきゃ。土曜のお夕食のあと、ザッハトルテを召し上がっていただきますわ。それに――」  千賀子はにっこり笑った。 「ちょっとした催しを考えておりますのよ」 「催し?」 「内緒。今は内緒ですわ。ご退屈はさせませんことよ。いらっしゃらなかったら後悔なさいますわ」  千賀子は強引だった。とはいえ、いつもの千賀子だ、という気もする。こうと決めた自分の計画に、またも熱くなっているようだ。  お出かけ、したい。彦乃の心も動いていた。  お伽話ふうだという洋館。お夕食。ザッハトルテ。呑気に他愛ないおしゃべりを尽くしながら一晩を過ごすこと。どれも魅力的だ。けれども、彦乃の心のうちでもっと強く意識される何かがある。  穂波さま。  子爵邸はその人が訪ねたことのある場所。そう思うと、この誘いを無にしたくないという気持ちが強くなってくる。  その晩、両親の反応は予想どおりのものだった。  人形町の末廣亭(すえひろてい)へ夫婦で出かけた帰りだという鞠子と義兄の幸一が顔を見せて、彦乃に加勢した。 「でも、お父さん、花扇子爵のお邸なのよ。千賀子さんというお嬢さんだって、縁談でも持ち上がってるのかも。好き勝手できる時間なんていくらもない。そう思って、誘ってくださってるんじゃないの?」 「う~ん、僕も問題ないと思いますけどね。なんといっても、華族さんなんですから」  押したり引いたりがあって、父親から「じゃあ考えておく」という言葉が出た。
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