外交官たち①

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外交官たち①

 夜の十時。  告知された時刻ちょうど。  悪魔、登場。胡桃材の机の端に腰掛けるかっこうで。  穂波は原稿用紙の上に文鎮を載せた。    写真立ての一つに斎門が手を触れようとする。 「こういうものは片づけろよ」 「触るな」 「♪~~」  歌うように口笛を吹き、斎門は部屋の中央へ移った。  穂波も椅子から離れる。これから、うんざりする仕事が始まる。斎門いうところの使だ。 「どっち方面だ?」 「ロンドン。ざっと六千マイルってとこか。大した距離じゃない」 「誰の背後に?」 「特命全権公使、暮林(くればやし)(ただす)男爵」 「相手は?」 「外務卿のランズエンド。侯爵だ。Marquess」 「どれくらいかかる?」 「天気の話、互いの国の元首への表敬、それはようございましただの、あれはなんとかなりましょうだの、それは考慮に値しますなだの諸々。大してかからんだろう、今日は。お互い、脈があるかどうか探りあいをするだけだから。詳細は、いつものように」  いつものように。  聞くたびに、ぞっとする。  いつのまにかうつむきかげんになっていたらしい穂波の顎を、斎門の指先が、くいっと上向かせた。身長六尺二寸の穂波より、斎門匠はさらに上背がある。  悪魔の右手が自身の右眼に触れる。葡萄の一粒を()ぐほどの雑作もなく、眼球が取り出される。左眼に笑みが浮かぶ。  ふーっと熱い息が穂波の顔に吹きかけられる。  すばらしく(かぐわ)しい。腹立たしくも、悪魔の(この特別な)息は、いつもそのように感じられるのだった。甘く爽やかで、同時に、どこか重い。華やかで、どこか暗い。  立ち眩みのような感覚に襲われたあと、体の自由がきかなくなる。意識が朦朧となっていく。――が、完全な遮断は起きない。まだ、この段階では。酔いつぶれて眠りに落ちる寸前のごとくに、意識はかろうじて、はたらいている。  悪魔の左手が穂波の顎を包むようにして、口を開けさせる。取り出された眼球が口のなかに滑りこむ。どろりとした粘着物にまみれた、ラムネ瓶のガラス玉ほどの球体。熱を帯びて苦味のある物体。 「さあ――」  やさしげに囁く悪魔。穂波は口のなかのものを飲みこむほかない。おぞましい感覚が喉を落ちていく。首も両腕も両足も、自分の意思ではまったく動かすことができない。  ゆっくりと、悪魔が唇を重ねてくる。その両手が穂波の頬を撫でる。悪魔の奴隷が把握しておくべき詳細な(悪魔が判断した範囲での詳細な)情報が、脳内に(じか)に流れこむ。  ――イギリスとの同盟の可能性について、外務省が探査に着手する。目的はもちろん、ロシュラント帝国への牽制である。  ――対ロシュラントのための同盟というアイディアは、そもそも、ドイツのイギリス駐在代理公使であるヘルマン・フォン・エッカルト男爵が、イギリス側に提案して生まれたもの、であるらしい。    ――フォン・エッカルトは、別個に、イギリスの大和帝国公使館にも打診してきた。    ――首相の内藤博文は、同盟の可能性をゼロだと考えている。が、暮林公使の、針の穴に駱駝を通す試みを留め立てはしない、と言ったという。    ――イギリスは南アフリカでも問題を抱えていて、極東での利権を守るためには、栄光ある孤立を捨てることも(いと)わない、かもしれない。  石のように動けなくなったまま、穂波は一方的な説明を受けている。ロンドン市内の街路の名称なども記憶させられる。  ざっと六千マイル?  簡単なお使い?  感謝しろ、とでも?  おまえが、おまえの()()()()のそばを離れがたい、ただそれだけのためだろうが!  強烈な吐き気が襲ってくる。獣じみた咆哮が耳の奥でこだまする。自分の体が浮遊し、空中で(きり)もみ状態になっているような感覚がある。  そこで、完全な遮断が起きた。
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