外交官たち②

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外交官たち②

 やがて、光が戻り、音が戻り、世界が戻ってきた。  穂波は、暮林男爵と書記官の同乗者となって、箱馬車に揺られている。すでに、人間には感知され得ない存在へと変えられている。奇妙なことに、穂波自身には自分の身体感覚が保持されているのだった。手足や胴体を失ってしまった、という感じは無い。  ここはロンドン中心部のおそらく……西? おさまらない吐き気を堪えながら、ぼんやりした頭で見当をつける。  ほどなく、頭がはっきりしてきた。  馬車は今ウェストミンスター地区を走っている、とわかる。記憶させられた地理情報をもとに推測するなら、そろそろ、キング・チャールズ・ストリートにさしかかるころだ。  馬車が角をなめらかな動きで曲がる。  キング・チャールズ・ストリートの北側。外務省の入っている建物は、イタリアルネサンス様式風とでもいうのか、穂波には正確にはわからない。この地区の景観の統一を損なわないよう、配慮がなされたらしいことは、わかる。ジョサイア・コンダー先生の私塾で、もっと熱心に勉強しておくべきだったな……。  午後の陽射しのなか、馬車は蹄の音を響かせながら正面中央のアーチをくぐっていく。  中庭で停まる。警備官が敬礼し、車の扉を開ける。暮林男爵、書記官の順で中庭に降り立つ。穂波もまた石畳を踏んだ。  暮林(ただす)男爵の背後からホールへ入る。  空間と構造の両方が同時に、訪問者を圧倒する。圧倒するのだが、ぎりぎりのところで、虚しいほどの仰々しさや寒々しさを免れている。ホールは吹き抜けになっていて、おそろしく天井が高い。ターコイズと金の装飾が美しい。踊り場を擁しつつ、左右に翼を広げた大階段は、なんとも典雅に設計されている。  男爵と書記官は、この建物の筆頭事務官の案内を受けつつ、大階段から二階廊下の奥へと進む。  扉の一つが開き、出迎えの秘書官が(うやうや)しく礼をして、異国の特命全権公使を待ち受ける。  書記官は、案内役を務めてきた筆頭事務官とともに、扉の手前に控えた。暮林男爵一人が室内へ入る。穂波は見えない姿のまま歩調を合わせる。  室内に一歩足を踏み入れた途端、不快な圧迫感が押し寄せてきた。 『防御の術が張り巡らされているな。苦しくないか?』  穂波の体内で斎門がつぶやく。  穂波に自らの右眼を飲みこませた悪魔は、ここにはいない。穂波の見るもの聞くもの触れるものすべてを、六千マイルの彼方にいて、同時に見聞きし、感知している。悪魔の分身が、穂波の体内に入り込んでいる状態にあるのだ。 『苦しくないか――? 毎回、快適な旅を楽しませてもらっている』  穂波は皮肉で応じた。消失している姿同様、何を語ろうと、その声は周囲の人間には聞こえない。今や、穂波の身体のすべてが、空気を振動させる存在ではなくなっているのだった。  室内では、ランズエンド卿と暮林公使とがあいさつを交わしている。ほっそりして地味な印象の外務卿。白髪、白髯(はくぜん)の恰幅のいい公使。二人の会話は、斎門が予想したとおり、天候についてのどうでもいいあれやこれやから始まっている。   やがて、二人の外交専門家の会話は本題へと移っていった。  ここまでのところ、穂波の出番はなかった。相手側から放たれる「否定的思考」の矢、「悪意」の矢、「攻撃」の矢は、皆無だった。それらの矢――正確には、育ちすぎた蛭のような形状をしているのだが――を各個撃破する。それが穂波の第一の任務だった。この矢、と見定めて意識を向け、排除したいと考えるだけで、矢は瞬時に消える。穂波が魔法を使うわけではなく、飲みこまされている斎門の分身が仕事をするのだった。  ネガティブな矢という夾雑物を取り除かないとだな――と、斎門は最初の使の直前に説明した。日本側の外交官が不必要に身構えてしまい、相手の真意をつかみそこねたり、日本側に有利な外交のチャンスを見逃してしまったりするのだ。  穂波の第二の任務は、暮林公使の冷静沈着さや集中力が乱されないよう、「安定の」を送りつづけることなのだが、これもまた、斎門の分身による仕事だった。  ――いや、自分の存在も何かしら影響しているのだろうか?  穂波にはわからない。 ※イギリス外務省の外観とホールの雰囲気は、『名探偵ポワロ』の一作、『盗まれたロイヤル・ルビー』で一部を知ることができます。イギリス外務省内で撮影が行われています。ご興味のある方は、チェックしてみてくださいませ。 
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