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外交官たち③
「同盟という考え、考慮に値すると考えられます」
物静かな口調でランズエンド卿が言う。
「ドイツにも参加してもらい、三国同盟という形にする選択肢もあるかと思いますが?」
「なるほど」
と暮林公使。
公使は、なるほど、と応じたのみで、その先を続けない。落ち着いたようすで葉巻をくゆらせている。穂波は公使のセンスに感心した。この交渉、うまくいくかもしれない。
公使の脳内にある情報も、今の穂波には読み取れる。
ロシュラント牽制のための同盟というアイディアは、ドイツの外交官が思いついた。ところが、大和帝国側で調べてみると、ドイツ本国はそんな考えを承知していないという事実が判明した。一方、イギリスは、攻守同盟の相手が、開国して三十数年しか経っていない極東の小国では、なんとも頼りない。ドイツを巻き込みたい。――そう考えているにちがいない。
さて、ここで大和帝国はどのように振舞うべきか?
ドイツは乗ってこないでしょう、などと言う必要はない。ドイツが加わるなら理想的ですな、などと言うのもまずい。ドイツに言及することなく、ただひたすら、大和帝国の意中の相手はイギリスなのです、イギリスただ一国なのです、と熱い心情を伝えればいいのだ。
落ち着きはらって無駄な言葉を発しない暮林公使。ランズエンド卿の目に信頼の色がわずかに見え隠れしはじめる。
信頼の色。それは瞳の色が深みを増し、ある光を放つ状態を指すが、それを穂波が読み取れるのも悪魔の右眼を飲みこんでいるからだった。魔の力によって知覚と認識能力が最大限に拡張されている。
外交官二人の会談はなごやかに進んだ。
「この件につきましては、先ずはセインズベリー首相に諮る必要があります」
「承知しております」
「同時に、時間の節約のためにも、貴国の側で下準備を進めていただいたほうがよろしいかと。貴国の側から同盟についての具体的な考えをご提案いただく。それを下敷きにして検討に入る。その予定でよろしいでしょうか?」
ランズエンド卿が落ち着いた口調で言った。
「結構です。本国に報告いたします」
と暮林公使。
「では、次回は夏ごろ」
「はい。この夏に」
握手が交わされた。
暮林男爵が卿の部屋を辞し、書記官と合流する。
今日はもうやるべきことはなさそうだと穂波は思い、
『このあと、どうする?』
斎門に問いかけた。
応答がない。
『斎門?』
ごくたまに、こういうことが起きる。斎門が勝手に右眼の機能を一時停止してしまうのだ。六千マイル彼方で、斎門は何かのよそごとに忙しく、奴隷に指示を出すことから注意がそれているのだろう。
と、そのとき。
うなじに何かが触れた。手で払いのける。
払いのけた何かは足元に落ちた。
(…………!)
蜘蛛。
二寸ほどもある。不気味で派手な模様が目を引く。全体は黒いが、胴体に、金の縁取りのある真っ赤な斑点が浮いている。
不快な節足動物は、穂波の足元から胸先へと、すすっと這い上がってきて、鎖骨のあたりでぴたりと止まり――次の瞬間、金色の粒子となって消失した。
魔の者はどこにでもいる、と斎門から警告を受けてはいた。いたが……これは心臓に悪い。
いつのまにか速くなっていた鼓動がおさまるのに、十五秒ほどかかった。
大階段のほうを見やる。公使の姿はない。公使館まで追いかけることはできるが、どうしたものか?
先ずは、ここを離れたほうがよさそうだ。
大階段を下りはじめると、
『穂波?』
悪魔の監視機能が復旧したようだった。
『ちょっとぐずぐずしていて、公使に置いていかれた』
穂波がそう言うと、悪魔は笑った。えらく機嫌がいいようだ。
『おまえらしくもない。藤村彦乃の花嫁姿でも想像していたのか? ならば、許す。今日はここまでだ。還るぞ』
還る。その言葉を聞いたら、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。そう指示されている。重要なのは吐く息で、吐き切る必要がある。
意識が遠のく。往路と同じように、獣じみた咆哮が耳の奥でこだまする。――いつも思う。この咆哮はどこでどんな魔物が発しているのか?
◇
気づくと、穂波は自分の書斎の椅子に座り、机に突っ伏していた。おぞましい右眼が体内に残っている感覚はない。斎門はいつも、用が済みしだい右眼をさっさと回収していく。
穂波は猛烈な眩暈と吐き気に襲われていた。往路もひどいが、帰還後のほうがさらに耐え難い。
椅子の肘掛けをきつく握りしめ、しばらくただじっとしていた。下手に動くと、この場で吐いてしまいそうだ。
呪うなら、おのれの間抜けさにしておけ、と思う。斎門さん、好きにしてください。そう口走ったのは、自分だ。
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