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再会
談話室の扉が乱暴に押し開かれた。
「ただいま戻りましたよ~。あれ……何やってるんです?」
酔っぱらいが乱入してきて、壁のスイッチに触れた。天井のシャンデリア型電灯が点り、室内が明るくなった。
『そっちへ飛ぶ。どこなんだ? 場所を言え!』
サイモンが怒鳴る。
『いえ……ちょっと待って』
ミリセントは迷った。アルコーヴの前の女が、彦乃の魂を抱いていた腕をほどき、立ち去っていく。
『事故とか言ったじゃないか。彦乃がどうしたっていうんだ? 何が起きてる?』
『何も。だいじょうぶ。解決したわ』
『おいっ!』
『ノープロブレム。サンクス! 後で説明するわ』
ミリセントは連絡回路を遮断した。
このわずか十秒ほどのあいだに、事態は別の方向へと展開していた。
子爵夫人も千麿も千賀子も、どこかぼんやりした様子ながら、目を覚ましている。登勢も、もそもそと動きだし、何やらわけがわからない、という表情で立ち上がる。ミリセントは登勢に、だいじょうぶよ、と目で伝えた――何がだいじょうぶなのか、理解したかどうかわからないが。
「お客さま? お嬢さま?」
家令がわずかに緊張した声を発する。彦乃は目覚めていない。
彦乃の魂はアルコーヴの前から動かない。ミリセントはぞっとした。あの死にぞこないが立ち去った以上、彦乃は安全になった、と思ったのだ。早合点だったのか?
このときはじめて、穂波が廊下からこちらへ入ってきた。
千賀子が友人の肩を揺する。
「彦乃さん?」
穂波がちらりとミリセントを見やった。目が合う。ミリセントはたじろいだ。穂波の目には何かを疑っている色がありありと見える。
穂波があたしの正体を知っている? そんなはずはない。ミリセントは知らん顔をして、テーブルの蝋燭の芯を指でつまんで火を消した。
「こちらのお嬢さまのごようすが……」
家令が不安げに千麿のほうを見る。次いで、子爵夫人を。
穂波が動いた。彦乃の右手首に触れる。
「な~にやってたんですか、お母さん? 千麿、千賀子、また占いか? そちらのご婦人は?」
ミリセントに興味津々の視線を浴びせつつ、酔っぱらいがしゃべる。
穂波が彦乃を抱きあげ、壁際のカウチへ運んだ。
「ブランデーを。ウィスキーでもいい。強い酒を持ってきてください。急いで!」
弾かれたように、家令が部屋を出ていった。
ミリセントは登勢を促し、どさくさに紛れて廊下へ出た。サイモンは、場所がわからないとなれば、探索の矢を放ってここを突き止めてくる。探索の矢が突き刺さると、かなり痛い(あとで化膿するし)。同じ場所に留まっていると探索されやすい。とにかく、ここから立ち去るのが上策だ。
騒動を聞きつけ、若い家職二人が奥から駆けつけてくる。その一人の腕をぐいと掴み、ミリセントはここ一番という笑みを見せた。相手がぽーっとなるのがわかる。
「急いでますの。帰りの車を出してくださいな」
「ご手配、お願いいたします」
登勢も言葉を添える。
ミリセントは、登勢と二人、子爵家の二台の人力車で帰路についた。
「下手を打ったわ……」
ハンカチの端を噛んだ。
◇
穂波は娘を膝に乗せ、その上体を左腕で支えた。脈拍と呼吸はかろうじて保たれているようだが、顔には血の気がなく、唇は白く、手は氷のように冷たい。
「堂本さま」
戻ってきた家令がブランデーのグラスを差し出す。
「どうした?」
花扇篤麿が話しかけてくる。
「黙っててくれ。静かに」
穂波はグラスを娘の口へあてがった。――うまくいかない。唇は固く引き結ばれていて、酒を流しこむのは無理だとわかる。
グラスをカウチの座面に置き、指先をブランデーに浸した。湿った指先で、色を失った唇をそっと撫でる。
この娘の名前は、藤村彦乃。自分はそれを知っている。呼びかけなくてはならない。ためらっている場合ではない。頭ではそう理解しつつも、しばし迷った。彦乃の唇を二度三度と、ブランデーで湿した。呼びかけた。
「藤村さん。彦乃さん」
どきりとする。呼吸が無い。そのほっそりした手首を握ると、脈拍も無い。
「彦乃さん! 目覚めてください!」
穂波は焦った。ブランデーを口移しで与える。それしかない。
グラスの酒をあおった。彦乃を抱きかかえなおした。その紙のように白くなっている顔に、自分の顔を近づける。
そのとき――
彦乃の唇からため息がもれた。弱々しいものながら、呼吸が戻る。脈拍も戻った。穂波の喉をブランデーが落ちていった。ちょっと、熱い。安堵が全身を包んでくる。
「彦乃さん」
もういちど呼びかける。
彦乃はうっすら目を開けたが、その焦点は定まっていない。意識が朦朧としているせいだろう、片方の瞳が、ほんのわずか、内側に寄っていて――この一瞬――たとえようもなく――愛らしく見えた。思わず、穂波は微笑んでいた。
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