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夢見
鳥のさえずり?
え……? 朝なの?
彦乃は天蓋付きのベッドに横になっている自分に気づいた。持参した寝間着を着ている。
着物は? ――着物は衣桁にきちんと掛けてあった。
ここが花扇子爵邸の一室だということは、わかる。前夜の記憶は、図書室から談話室へ移動したあたりで、ぷっつり途切れていた。
自分で着替えたのかしら?
甘い夢の余韻が一気に吹き飛ぶ。
うろたえていると、扉がノックされ、
「お目覚めかしら?」
千賀子の声がした。
彦乃は飛び起き、寝間着の前をきっちり合わせると、千賀子を招じ入れた。
「私、何かとんでもないことを……?」
「いいえ」
千賀子の説明によると、談話室で彦乃は気分が悪くなって――「そんなごようすでしたわ」――倒れたらしい。千賀子と二人の小間使いとで彦乃を部屋へ運び、着替えさせてベッドに寝かせたのだという。
彦乃は恥ずかしさで消え入りたいような思いがした。食べなれないご馳走のせいかしら? みっともないわね、私ったら……。千賀子さんにもご家族にも、ご迷惑をおかけしたんだわ。彦乃は真っ赤になって何度も頭を下げた。
千賀子は広げた両手を忙しく振って、
「いけませんわ。そんなふうになさらないで。甘すぎた生クリームがよくなかったんですわ、きっと。ごめんなさい」
千賀子をはじめとする子爵家の人々の気遣いやいたわりは、彦乃をめんくらわせるほどだった。なんと、子爵家の主治医の問診さえ手配された。
ご昼食をさしあげますわ、という千賀子の申し出は辞退した。胃袋が何かを受けつけるとはとても思えない。午後のお茶だけをいただいた。
居間で、子爵家の跡取りになるらしい篤麿氏にも紹介された。篤麿氏と千麿氏の撞球対決を観戦させてもらったあと(そのゲームの面白さが彦乃にはいまいちわからなかったが)、千賀子と他愛のない会話に興じた。
午後――。
彦乃は麹町の自宅へ、子爵邸お抱えの人力車で、送り届けられた。別の一台で、子爵家の家令がつきそってくれる。
フロックコート姿のその老紳士は、藤村家を去り際に、
「ご気分は本当になんともございませんか? 不調法をいたしました。申し訳ございません」
と二度も頭を下げた。
彦乃は恐縮するほかない。
「不調法は私のほうです。いろいろとお世話になりました。ありがとうございます。楽しゅうございました」
深くお辞儀をして返礼する。
子爵邸で一晩を過ごせたことはいい思い出になるだろう。洋館は瑠璃子さんから聞いていたとおりだったし、お食事は(食べ過ぎてどうかなってしまうほどに)美味しかった。図書室で誰かを見てしまったような気がするけれど――それについて考えるのはよそう。
生まれて初めてベッドというもので(天蓋つきだった!)眠った。ふかふかしていた。あれは夢見をよくしてくれるものなのだろうか?
四畳半の自室で思いだし、彦乃は両頬を両手で包んだ。ありえない夢を見た、と思う。穂波さまが私の名前を呼んでくださったのだ。あの方のお顔がずいぶん……近かった……。
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