107人が本棚に入れています
本棚に追加
出逢い②
数秒後、顔を上げることができた。薄紅色の花がちらほらと舞うなかを、親子がのんびりした足取りで去っていく。
あの方は名乗らなかった小娘に気分を害されただろうか? ほんの数分間、時間をまきもどすことができたら、と彦乃はうらめしい。
と、そのとき――
首筋に寒気を覚え、全身が粟立つのを感じた。セーラー服の後ろ姿が、陽炎のようにゆらめいて見える。はっとして俯き、目をきつく閉じた。意識的に五感を遮断しようと努める。いつものように。
「どうなさったの?」
隣のスツールに腰掛けながら声をかけてきたのは、蔵田瑠璃子だった。つい十日ばかり前に華族女学校をいっしょに卒業した友人だ。
「帯をきつく締めすぎたようで……」
咄嗟に言葉を並べた。まったくの嘘ではない。幅広の丸帯に慣れていない。まだ少し鼓動が速い。
そこへ、身ごなしのなんとも優雅な外国人のカップルが通りかかった。隆とした身形のおそろしく大柄な紳士と、明るい色のドレスにヴェール付きの帽子という装いの美女だった。
紳士は美女をエスコートしつつ、トップハットのひさしにちょっと手をやって、彦乃と瑠璃子に会釈していく。呼吸するがごとくのしぜんな振舞いだった。まったくいやみがない。西洋のマナーとはああいうものなのか?
「彦乃さんも? あたくしもですわ。洋装のコルセットとやらは、もっと苦しいとか聞きますけど」
瑠璃子も、体格のいい外国人のカップルを賞賛の眼差しで見送った。そして彦乃にぐっと身を寄せ、耳元でささやいた。
「あの方とお話ししていらしたでしょ? 素敵な方ですわよね、穂波さま」
彦乃は途惑った。さっきのあの男性は男児の父親、つまり既婚者だ。素敵な方……瑠璃子さんたら大胆なことを!
「お話し……いいえ、ほんの二言三言。ただの偶然で――」
「堂本穂波さま。独身でいらっしゃるの。奥さまを亡くされて」
伯爵家の身内であるらしい男性について、瑠璃子が何かしら知っているのは不思議ではない。瑠璃子は蔵田財閥の令嬢であり、一介の商人から大事業家となった父親は叙爵を狙っていると噂されている。兄や姉はすでに、子爵家の娘を娶ったり、伯爵家の次男に嫁いだりしている。
「瑠璃子さん――」
彦乃は口を開きかけたが、何を言いたいのか自分でもわからない。言葉が見つからない。とりあえず瑠璃子のおしゃべりを止めさせて、二人で庭の隅へ移ったほうがよくはないだろうか? こんな会話をここで続けていいものかしら?
瑠璃子は、黙ってお聞きなさいとでもいうように、自分の唇の前に人差し指を立てるしぐさをした。いたずらっぽく微笑んで、左右にさっと視線を投げる。たまたま、二人の近くには誰もいない。弦楽四重奏団が奏でる調べが変わる。
「素敵な方ですけど、平民でいらっしゃるの。ご結婚されるとき、分籍されたとか。もったいないですわね。先代伯爵のお血筋を引いていらっしゃるというのに。あたくしね、小説を読むときは見知った方々に登場人物を演じていただきますの」
「演じて?」
「想像上、ですわよ。早乙女咲子の婚約者をイメージするとき、穂波さまのお顔を思い浮かべることにしていますの。ストーリーにぴったりなんですもの」
早乙女咲子は小説『戀の銀輪』のヒロインで、自転車通学するお転婆な女学生、という設定になっている。親同士が決めた婚約者を避けていたところ、じっさいに出会ってみると魅力的な男性で、熱烈な恋に落ちる。二人は、予期せぬ事件や妨害に見舞われつつも、恋の成就へまっしぐら――甘い甘い大団円が用意されている。
「穂波さま、本当にもったいないですわ」瑠璃子は熱っぽく続ける。「あんなにハンサムでいらっしゃるのに。お声も素敵ですわよね。なのに再婚のご意思はおありではない、とか。亡くなられた奥さまが忘れられない。そういうことなんでしょうね。忘れ形見の坊やもいらっしゃるし」
瑠璃子は今日のプログラムを開いたり閉じたりした。彦乃は友人のその手元に視線を落としている。
「でも、お心変わりされるかもしれませんわね。そのとき、再婚相手のことだけを思って大事にしてくださるなら、いいのでしょうけれど。そうならなかったら? 辛いですわよね。それよりなにより、やはり残念ですわ。華族の身分をお捨てになってしまったなんて、ねぇ……」
友人の言葉の最後のほうを、彦乃の耳はもう正確にはとらえていなかった。
ついさっき偶然に言葉を交わした男性について、いくつかの事実を知ることになった。妻に先立たれた人。再婚の考えは、ない。華族の身分に興味はない、らしい。
そうした事柄をいつのまにか心の手帳に書き記している自分に気づいて、彦乃は途惑った。書き記した頁に栞を挿もうとさえしている。
栞? 落ち着いてもういちど読みなおすために――?
胸の奥がなにやらひくひくと震える。私ったら何を考えているんだろう?
何日か前に『帝都日日新聞』に載った皮肉たっぷりの記事を思い出す。
〖頭の中を勉學への熱意ではなく甘つたるい妄想で一杯にしてゐる女學生ばかりとなつては、『戀の銀輪』の作者を莫大なる印税収入で喜ばせるだけであらう。作家の収入にケチをつける考へなど小生には毛頭無く、帝都の女學生たちの腦内を心配してゐるのだ、いやはや……〗
私はもう子供ではない。女学生でもない。いい大人なのだ。それなのに小説の世界を追いかけてばかりいるなんて……。
「お嬢さまがた~、記念のお写真はいかがですか~」
芝生の向こうから声がかかる。ちょっと妙なアクセントがあった。
「まいりましょう。お写真、撮っていただきましょうよ」
瑠璃子が立ち上がる。彦乃も続いた。
最初のコメントを投稿しよう!