巾着とリボン

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巾着とリボン

 彦乃を乗せた人力車は、町屋の並ぶ、そこそこに賑やかな商店街を走っている。米屋、酒屋、小間物屋。ランプと石油を商う店。さびれつつある団子屋。繁盛しているミルクホール。自宅は、あと一町ほど先の角を右に折れた横丁の、さらに奥にある。    萌葱(もえぎ)色の絹糸をきらしていた。(はなだ)色も無かったはず。思いついて、彦乃は車夫に声をかけた。 「ここで降ろしてください」 「へい? お宅の前まで行きますよ」 「ちょっと買い物が」  労をねぎらう言葉をかけてから、車夫を帰した。通り過ぎていたので少し戻り、維新前から商っているという小さな店で買い物をすませた。  広い通りから横丁へ。さらに路地へ入る。路地を抜け、毛艶のいい黒猫が三毛猫を追いかけていくのを見送って、小さな角を曲がる。  背後から誰かが距離をつめてきたような気配が感じられた。近所の顔なじみの主婦か老人かもしれない。彦乃は振り返った。  ――誰もいない。  気のせいだったようだ。  帰宅して両親にあいさつをすませると、彦乃は廊下の突き当りにある四畳半の自室へ引き上げた。すぐ上の姉の鞠子が嫁ぐまでは、二人でこの部屋で寝起きしていた。  引き出物の干菓子と買ったばかりの色糸の入った巾着を文机に置いて、帯締めをほどく。ちょっと苦労しながら、地厚で重い丸帯をほどいていく。手伝ってくれる小間使い。そんな使用人はこの家にはいない。掃除や洗濯や炊事を引き受ける女性たちなら、住み込みの若い人と通いの主婦とで、三人いるが。  普段着に着替えてから、一枚しかないよそゆきの着物を衣桁(いこう)にかけると、帯や小物もしまって片づけた。頭の大きなリボンも外して、マガレイトに結っていた髪を普段どおりの結い流しにする。  文机の前に座り、窓の外を眺める。小さな庭に桜はないが、久留米躑躅(つつじ)が蕾をたくさんつけている。濃い紅色の八重咲きの花が満開になると、「この躑躅は、かわいいと言えばかわいいけど、ちょっとうるさい感じね」などと姉の鞠子は苦笑したものだ。  うるさいなんて私は思わないから、と心のなかで庭木に声をかける。早く満開になってね。  十七、青葉のころには十八になる藤村彦乃は、常に、心なぐさめてくれるものを必要としていた。ばかばかしいと揶揄される恋愛小説も、ほとんど、心の支えになっている。  生命(いのち)なき存在。彦乃は、ときに、それを感知してしまう。その心象(イメージ)を意識から払いのけるには、ちょっとした助けが必要なのだった。  彦乃の秘密を知っているのは――知っていたのは――今は亡き祖母、藤村キヨだけだった。  あのセーラー服に包まれた小さな背中。それを守ろうとするかのような()()を見た気がする。  ――気がするんじゃなくて、あれは現実だったじゃない。わかっているじゃない。  彦乃は文机の下へ手を伸ばし、いつもそこに置いてある裁縫箱に触れた。祖母の形見が安心感を与えてくれる。ざわついた心はしだいに鎮められ、思いだしたくないものは遠ざかっていった。  堂本ユキちゃん。どういう漢字を当てるのだろう?   堂本……ホナミさま。穂波さま、だろうか?  伯爵はもとより、招待客の男性の大半は、洋装か黒羽二重の紋付に袴という正装だった。そのなかで着物と同色の羽織という装いは略装に過ぎたかもしれない。でも、渋いけれど重すぎない色合いが、あの方にとてもよくお似合いだった。あの色は藍墨茶(あいすみちゃ)だろうか?   初対面だった男性の印象の細部を鮮明に心にとどめている自分に、彦乃は軽い衝撃を受けている。初めての経験だった。はっとして、両頬を両手で包む。熱い。胸の高鳴りはうるさいほどだ。  いけない!  現実と小説をごちゃまぜにするなんて、幼稚すぎる。  居間のほうから賑やかな声が聞こえてきた。長姉の愛子と下の姉の鞠子が家族連れで遊びにきたのだ。同じ麹町区内に住む二家族はちょくちょく顔を見せる。今日は、そろそろ灯点(ひとも)しごろではあるし、夕飯目当てなのだろう。姉二人は家事の手抜きが巧みだ。二人の義兄は、またあの「設備投資」とやらについて岳父の意見を聞きにきたのだろうか。  彦乃は、巾着からお土産の干菓子を取り出すと、それを手に文机のそばを離れた。飼い猫のすえこが尻尾をぴんと立てて寄ってきた。 「すえこ、いつからそこにいたの?」  猫を抱いて居間へ入っていくと、父親の(いわお)が孫と相撲を取っている最中だった。
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