ホリデイ写真館

1/1
前へ
/253ページ
次へ

ホリデイ写真館

「お先に失礼いたします」  いつもながらの、礼儀正しい挨拶だった。 「ごくろうさん。気をつけて、お帰り」  ホリデイは、裏口を出ていく登勢(とせ)の背中を見送った。  無駄口をきくでもなく真面目に勤めてはくれるけれど、ちょいとばかり、あの娘は陰気かねぇ(陽気よりは好ましいけどね)。それでいて、ときおり妙に勝気な色を顔に出すこともある。  複雑な気性の持ち主なんだな、登勢は。まあ、しょうがないんだろうねぇ、とホリデイは思う。ごくわずかながらとはいえ――あまりにも薄すぎて何の役にも立たないとはいえ――因果な血を引いているのだから。  堀江登勢はかなりの器量よしだった。髪を桃割れに結って、そこへホリデイがフリルのついた真っ白な長エプロンを着せたものだから、男性客のあいだではめっぽう評判がいい。やたらに愛想笑いを振りまかないのが、かえって新鮮なのかもしれない。わけもなく何度も肖像写真の撮影に足を運ぶ、鼻の下をのばした客が少なくない。  登勢は客あしらいがうまく数字に強い。お客さま、お写真の代金はいくらいくらでございます、お釣りはいくらいくらでございます、本日はおつかれさまでございました、またのご来館を。実にそつなく、ぬかりがない。頭は切れるのだ。接客やら館内の整理整頓やらお使いやらを、賢い娘がきちんとこなしてくれるのは、ホリデイとしては大いに助かる。    それよりなにより、登勢は思いがけない良質の情報をもたらしてくれた。ホリデイがある(ポーション)によって白状させてしまったのだが。薬はミリセントが気まぐれにくれたものだ。  ホリデイとしては、ごく薄いながら(すみれ)色の瞳を持つ登勢の生い立ちを知っておきたかったのだった。薬を紅茶にまぜて飲ませると、登勢は酩酊したかのように身の上について語った。  まあ、あれは悲しい話なんだろうね。かわいそうにねぇ、と同情してやるべきなんだろうけど。  人間に同情? どうやったら、そんなことができる?  それよか、いい話が聞けた! ひひひ。  館内で独りになったあと、ホリデイは暗室に(こも)った。  写真師が、撮影現場にさまざまな薬剤と簡易暗室まで携えていき、コロジオン湿板の用意から始まって、現像も焼きつけも、すべてをその場で慌ただしくこなさなければならなったのは、そう遠い昔のことではない。  今ホリデイが使っているのは、イギリス製のゼラチン乾板とブロマイド印画紙である。どちらの商品も、斎門匠ことサイモン・タッカー、あの忌々しい悪魔が経営する貿易会社が輸入総代理店であるらしい(あいつは抜け目なく細かく稼ぐ……ちっ!)。とにもかくにも、上海経由で輸入される品々のおかげで、ゆっくりと暗室作業に取りかかることができるのだ。    ホリデイは浮き浮きした気分で仕事を進めた。口笛を吹く。この日の午後のことを思いだしていた。  美しいキモノで着飾った娘たち。「四人ずつ前後に並んでいただきましょうか。そうそう、そんな感じです。後列のお嬢さまがた、もうちょっと詰めて」などと声をかけているときから、すでに予感はあった。もしや、あの眼は――?  死神族は魂の回収をするしか能がなく、何の術も心得ていない、と信じられているんだろうけれど。侮ってもらっちゃ困る。我々だって魔の者の端くれ。写真機のレンズにちょいと魔の力を仕掛けるくらいのこと、朝飯前なのさ。  あのレンズで覗いた景色のなかに、見つけたんだよねぇ、稀少な存在を。肉眼で見て気がつかないわけじゃないが、術のかかったレンズのおかげで確信が得られたよ。あれはホンモノ!   今日の出会いは偶然だったが、あの振袖姿の娘が登勢の身の上話に出てきた従妹なのだな、とピンときた。菫色の瞳を持つ人間なんて、狭い土地にそう何人もいるものじゃない。  ホリデイは思い出す。人間であそこまで濃い菫色の瞳を持つ例は、これまで一人しか知らない。ロンドンのホワイトチャペルに住んでいたお針子だ。あの娘は錯乱しちゃって、その後どうなったんだか?  いつどのようにして我々の血が人間のそれと交わったのか。興味深くはあるけれど、遠い遠い昔のできごとであり、今となっては、その最初の一滴へと辿りつけるはずもない。  ひとつあきらかになっている事実があって、それは――死後の人間の魂というものが、死神よりも、死神の血を(どんな因果か)受け継いだ人間のほうに集まりやすい、ってこと。  遠い昔のことはどうでもいい。大事なのは、 「これだよねぇ」  上機嫌の死神は独りごちて、一枚の印画紙の端をトングで(つま)み、定着液のなかでそっと振った。  目的地を見失い、迷子になっている魂どもよ。あの娘に吸い寄せられてどんどん集まってくるがいい。このホリデイさまにさっさと引導を渡されるがいい。    ホリデイは娘の家まで出かける気でいるのだった。だいたいの所番地はわかっている。車夫に、どこで下ろしたか後で教えてくれと、五十銭ばかりつかませたのだ。写真館の裏口へ車夫がやってきたとき、もう十銭チップをはずんだ。登勢は何も気づいていない。  下調べは早いほうがいいだろう。この国で丑三つ時とやら呼ばれる時間帯。出かけるとしたら、そのあたりがいい。 9ae259be-f2bc-45f8-9fae-9f4d4d6c03ff
/253ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加